反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

連載、真昼の盗人のように~ポストヒューマニティ時代の権力~ スラヴォイ、シジック。W資料、経済の金融化→現代の金融寡頭制。人権について。

     真昼の盗人のように~ポストヒューマニティ時代の権力~

  真昼の盗人のように 引用
「合衆国およびEUの金融政策には逆説がある。
<<A、投入された巨額の資金は、擬制資本(社債や株など、現実の資本ではないが、利子や配当などの収益を生むことから資本とみなされるもの)の取引の中で消滅してしまうため、生産につながらないのである。
B<だからこそ、借金の爆発的増加(福祉国家に必要なコスト)に関するリベラル派にありがちなハイエク的解釈は退けねばならない。
>データが明確に示しているように、借金の大部分は金融資本及びその利潤を得るために使われているのだから。>>」

 

W。<<A→B>>は重要な指摘。以前から気になっていた。

  W。資料①   

   経済の金融化   三井住友信託研究員
「経済の金融化(financialization)」
具体的には、①実態経済をはるかに上回るピッチで拡大する金融資産と金融市場、

②国境を越えた 金融取引の増大、

③金融機関等(含む機関投資家・ファンド・SPC 等)の資金力と影響力の増大、

④金融 工学を駆使した金融商品の開発とその膨張、

⑤実態経済から乖離した市況の大幅な変動と金融危機の 頻発、

⑥信用力が低い領域(新興国、低格付企業等)における債務の増加-といった事象である。

 巷間、見聞する「金融の肥大化」「カジノ資本主義」「尻尾(金融)が犬(実態経済)を振る」は、特定の事 象をジャーナリスティックに表現している嫌いはあるが、その描く風景は概ね同じである。
 

 金融化の姿や進行度合いは国・地域毎で違いはあるが、共通する背景がある。

①一 定水準の経済成長が持続する下、相応の金融資産が金融機関等に蓄積された、

②80 年代以降、生産性の伸び鈍化等により経済成長率、物価上昇率、資金需要が趨勢的に低下するとともに、金融政策も緩 和スタンスが強化され、金利もクレジットスプレッドも超低水準まで低下した、

③このため十分なリターンを 確保できる運用対象が不足し、運用難に直面した金融機関等は投融資基準の緩和、少しでも高い利回 りを求めて投融資先を探す「イールド・ハント」を徐々に強めた、

④この間、金融の自由化・グローバル化 が推進され、これに先端の金融工学が加わり、高リターンを企図した証券化商品・金融派生商品の開発、 ファンド等の組成が相次いだ、

⑤金融機関等は証券化商品等への投資のほか、貸出やレポ/CP 市場 を通じてファンド等向けに資金を供給した(特に米国)、

⑥こうして預金取扱機関を仲介した伝統的なル ート以外でも信用創造が増大し、金融資産はさらに増大したが、十分なリターンが確保できる運用対象は依然、不足した、

⑦このため、金融機関等の「イールド・ハント」はむしろ強まり、将来見通しの楽観・慎重・悲観の変化に伴って金融市場に流出入する資金規模も増大した、

⑧この結果、市況の変動は実態 経済とかけ離れて大幅なものとなり、バブルの生成と崩壊や金融危機が発生する頻度も高まった、

⑨ま た有望と見なされる分野にはマネーが一気に流入し、供給過剰を引き起こしやすくなった。

世界の金融機関等に蓄積された膨大な金融資産規模を勘案すると、十分なリターンが確保でき る運用対象の不足は解消されず「カネ余り」過剰流動性「イールド(利回り)・ハント」集約される金融化は容 易には変わらないと考えるべきであろう。

 また、リーマン・ショック後の各種金融監督・規制は金融化その ものの抑制を企図したものではない以上、対症療法に過ぎないと見なすべきだろう。

B株式市場企業の「資金調達の場」というよりも「株主還元の場」になりつつあることは、

株主たる金融機 関等利益分配において企業に対する影響力を強めようとしていることの表れと見られる。

また近年、C企 業は有形固定資産投資よりも、M&A 等金融・財務的投資に傾斜するという事業投資会社」的性格を強 めている。こうした事象も金融化が下地となっていると言えよう。

W。

*預金取扱機関を仲介した伝統的なル ート以外でも信用創造が増大し、金融資産はさらに増大

*金融市場における最大限の収益を求めた膨大なマネーの急激な出入りの環境 

A「カネ余り」「過剰流動性」「イールド(利回り)・ハント」に集約される事象

B、株式市場における特定の金融機関等々の経済支配力の増大

C,企 業は有形固定資産投資よりも、M&A 等金融・財務的投資に傾斜するという「事業投資会社」的性格を強 めている。

>以上を総括するカテゴリー金融寡頭制

53.現代の金融資本と金融寡頭制 Copy of 山田博文のNetizen越風山房

 1 現代の金融資本と投資銀行

1)金融資本と証券発行業務

「「金融資本の主要な業務の1つである有価証券発行の異常に高い収益性は、金融寡頭制の発展と強化のうえできわめて重要な役割を演じている」

「有価証券は、政府や企業が借金する際に発行する国債社債(総じて債券)と、企業が資本金を調達するために発行する株式に大別される。金融資本が、有価証券の発行に関係する業務(証券の発行・引受・売出業務)を主要業務として重視するのは、確実な手数料収入などの利益が見込めるからであり、また政府や企業の資金調達に直結する債券や株式の発行を掌握することで、政府に対しても、企業に対しても、金融資本の独占的な影響を駆使することができるからである。
 もし国債や株式の発行ができなくなれば、政府も企業も、財政資金や資本金が枯渇し、財政破綻や経営破綻に追い込まれるからである。そのため、政府も、国債の発行では引受手数料を支払って、財政資金を調達してきた。

>たとえば、戦後日本の国債引受手数料は発行額の0・6%ほど、10兆円の国債発行なら、その国債を引き受けてくれる金融機関には600億円ほどの手数料が支払われていた。アメリカでは普通株式の引受手数料は2011年平均で3・55%である。」

 (2)現代の金融資本とその実態

「いま目前でビジネスを展開している内外の個々の大企業・銀行が、現代における金融資本という概念の現実的・具体的な定在形態、その姿である。これら1つ1つの独占資本、独占的産業資本・独占的商業資本=大企業、独占的銀行資本=大銀行が、金融資本という概念の現実の姿、その定在形態となる。たしかに、小売企業やIT関連企業を金融資本と規定することには違和感がつきまとうが、問題の核心は、その規模の大きさであり、独占的銀行資本と「融合あるいは癒着」し、当該経済分野における独占的な市場支配を達成しているかどうかである。」

 (3)多様化する金融業務と金融独占

「巨大銀行は、商業銀行業務も投資銀行業務も、その他の金融業務のほとんどすべてを営む巨大金融コングロマリットとしてビジネスを展開している。」

 

 (4)アメリカに集中する金融資産

「『帝国主義論』の時代と異なる現代経済の構造変化の1つは、経済の金融化 7が極端に進展したこと、さらにアメリカ一国に金融資産が集中したことである。」

「金融資産の世界総額(268兆5850億ドル)は、2012年現在、実体経済の規模を示すGDPの世界総額(72兆2160億ドル)を3・72倍も上回る

「「債券発行残高」と「株式時価総額」とは、金融資産総額の56・4%を占める。「債券発行残高」の割合(36・9%)が大きいのは、2008年のリーマン・ショック後、日・米・EU諸国の政府が大規模な景気対策の財政資金調達のため、国債を増発してきたことにも起因している。」

>「現代では、「債券発行残高」の35・6%、「株式時価総額」の32・1%が、アメリカ一国に集中し、他の3つの国の保有割合は3〜6%台にすぎない。」

「このことは、『帝国主義論』の指摘を敷衍するなら、アメリカの「国際的な銀行家、世界金融資本」が、世界中を自分たちの「債務者と献納者」に仕立て上げている時代を意味する。
 実際のところ、アメリカは、世界中を自分たちの「債務者と献納者」にするため、アメリカ内外の金融政策と財政政策に大きな影響力を持つ歴代の財務長官のポストには、世界最大の投資銀行業務を展開するゴールドマン・サックス社のCEO経験者が就任してきた。」

民主党クリントン政権下のロバート・ルービンは日本に金融開国と金融ビッグバンを実現させ、共和党ブッシュ政権下でリーマン・ショック対策を断行したヘンリー・ポールソン、そして現トランプ政権下のティーブン・ムニューチンも全員ゴールドマン・サックス社の役員経験者であり、ウォ−ル街の金融ビジネスのトップランナーであった。
 ブルームバーグ社は、アメリカの中央銀行である連銀の役員の3分の1は、ゴールドマン・サックスの「卒業生」たちによって占められ、「中央銀行幹部への出世街道にウォール街が再びつながり始めた」8 と指摘し、さらに「米国ばかりではなく、イングランド銀行(英中銀)のカーニー総裁と欧州中央銀行(ECB)のドラギ総裁もゴールドマン出身者である」と指摘している。
 こうした体制を構築することで、現代の代表的な金融資本であるアメリカのゴールドマン・サックス社は、世界中を自分たちの「債務者と献納者」に仕立て上げ、同社のCEOは、2006年の年間ボーナスでみると、約5300万ドル(約63億円)を受け取り、世界中の同社の社員も、年間平均報酬で約62万ドル(7300万円)を受け取っている。ニューヨーク州の調査では市内の投資銀行に支払われたボーナスは、合計239億ドル(約2兆8200億円)に達した 。」

  2 金融資本のグローバル市場支配

 (1)トップ10のグローバル市場支配

「企業の合併・買収に関係するM&Aアドバイザリーや債券・株式の引受・売出にいたるグローバルな投資銀行業務から世界の銀行が獲得した手数料収入。

アメリカの5大銀行(JPモルガン、ゴールドマン・サックスバンク・オブ・アメリカメリルリンチモルガン・スタンレー、シティ)だけで、グローバル市場全体の28%を占める。これに、バークレーズ(英)、クレディ・スイス(スイス)、ドイチェ・バンク(独)、ウェルズ・ファーゴ(米)、RBCキャピタル・マーケット(カナダ)といったヨーロッパの巨大銀行を加えた世界のトップ10大銀行の市場占拠率は43%に達する。シェアは小さいとはいえ、みずほ・FG、三井住友・FG、三菱UFJ ・FG、野村證券といった日本の巨大金融機関を加えた上位25社の市場占拠率となると、60・9%を占める。
 地域別に手数料収入のシェアをみると、アメリカ52・7%、ヨーロッパ22・1%、アジア太平洋18・9%、日本4・2%、中東アフリカ1・9%であり、アメリカ合衆国投資銀行だけで、グローバル市場の過半のシェアを独占している。」

「手数料収入は、総資産を拡大する貸付による金利収入とは異なり、総資産を拡大することなく収益を拡大できるので、国際決済銀行の課す自己資本比率規制(BIS規制)をクリアしたまま、より多くの収益を獲得できる有効な収益源泉にほかならない。」

巨大銀行のバランスシートは、従来の貸付による金利収入の割合を低下させ債券・株式の引受・売出、M&Aのアドバイザリーといった伝統的な投資銀行業務に加えて資産管理などによる手数料収入、債券・株式を高速に売買し、その売買差益を追求するトレーディングのような「カジノ型金融」業務の割合を増大させている。」

  (2)債券発行・引受市場

政府や企業の資金調達にあたり、巨大銀行は主幹事として社債などの債券発行を準備し、発行の際には自行の資金で債券を引き受け、それを投資家に販売することで、円滑な資金調達が実現する。債券の引受業務は古典的な投資銀行業務である。」

「各国政府・企業が、2016年に発行した公社債の総額(グローバル債券発行市場)は、6兆9922億ドル(755兆1576億円)に達したが、トップ10銀行の引受シェアは43・1%、トップ25銀行のシェアなら67・5%を独占した。」

国債を発行する各国政府も、社債を発行する各国の企業も、資金調達に当たっては、債券の発行・引受業務を独占する巨大銀行25行に依存する。これらトップ25行が指図する発行金利や売出価格、どの国のどの市場にはめ込むか、などの指示に従うことになる。
 少数巨大銀行による引受業務の独占は、しばし不透明で不正な取引が行われる温床になり、たとえば最大手のJPモルガン・チェースは、リーマン・ショック前の住宅ローン担保証券の不正販売をめぐり、米当局に総額130億ドル(1兆3000億円)の和解金を支払うことになった 。」

 (3)株式発行・引受市場

「各国企業が、2016年に発行した株式総額(グローバル株式・株式関連発行市場)は、6549億ドル(70兆7292億円)に達したが、トップ10銀行の引受シェアは49・5%、トップ20銀行のシェアなら61・7%を独占した。」

「大口の株式発行・引受市場で、近年、無視できないのは、民営化株式である。新自由主義市場原理主義に傾く各国は、国営企業の民営化に踏み出し、巨額の民営化株式が、グローバル市場で発行された。「地球的な経済革命」といわれた民営化の嵐を取り仕切ったのは、アメリカの「ウォール街財務省複合体」である。
 アメリカの巨大投資銀行は、民営化というビジネスの「金鉱脈」から莫大な手数料収入を獲得しただけでなく、「世界をまたにかける民間の機関投資家が影響力を強化し、各国政府の政策の優先順位を整理し直している」、といった事態が到来している。自国の政策の決定権が、大口投資家や金融資本の「資本の論理」によって制限される時代がやってきた。」

「現代では、民間部門に限らず、「天下り」と「天上がり」の人事交流を介して、政府の審議会に業界の代表が送り込まれ、金融資本の利益を反映した各種の政策が作成され、族議員と与党の多数派によって議会で採決され、実施される。
 恐慌やバブル崩壊に直面すると、政府から公的資金を引き出し、私物化することで経営破綻を回避するなど、これは、金融資本による「会社支配」ならぬ「政府支配」、金融資本が国家を支配下におく国家独占資本主義体制といえよう。」

 (4)M&Aアドバイザリー市場

「「20世紀の錬金術」といわれるM&A

1世紀前にもブームとなった企業のM&Aと業界再編の目的は、国内経済圏における経済支配の実現にあったが、現代のM&Aは、その目的が地球的な規模での支配=グローバル支配(「global domination」)にある。

「グローバルM&A市場の取引額は、2016年、3兆2353億ドルに達し、この取引で獲得された手数料収入は総計299億7000万ドル(3兆2367億円)であったが、その56・5%は、アメリカのゴールドマン・サックスモルガン・スタンレー、JPモルガンといった巨大銀行25行が独占した。」

「企業のM&Aの本質は、株式の買い占めなどを通じて、既存の企業を支配する「資本家による資本家からの収奪であり、少数のより大きな資本への多数のより小さな資本の転化」 である。M&Aにともなう事業の再編成では多くの労働者が大量に解雇され、資本の野蛮な本性が発揮される。」

「だが、M&Aは当初のもくろみどおりに成功するとはいえず~

2006年の東芝によるアメリカの原発企業ウェスティングハウスM&Aも、10年後には7125億円の巨額損失をもたらし17 、東芝の経営危機を誘発した。」

  (5)膨張するトレーディング業務

「近年の経済の金融化、情報化の進展は、「発行業務」から「流通業務」へ、株式や債券の売買取引(トレーディング)業務へと、金融資本の利益の主要源泉が移行してきた。
 それは、古くからあった有価証券の引受という狭義の投資銀行業務から、有価証券の売買による投機的な売買差益を追求する、より広義の投資銀行業務への変容を意味している。このような投機的な金融ビジネスを主導するアメリカ・ウオール街の金融資本がグローバル市場を支配する現代資本主義は、したがって、「カジノ型金融」独占資本主義としての特徴をもつことになる。
 コンピュータプログラムを駆使し、1万分の1秒のスピードで株式や債券を超高速で売買 し、瞬時に巨万の儲けを獲得するトレーディング業務こそ、レーニンの時代とは比較できないほどの発展と膨張を遂げた現代の「カジノ型金融」独占資本主義を象徴する業務である。それはまた、『帝国主義論』が指摘する「金融的術策」の現代版であり、「資本主義の寄生性と腐朽」を象徴する業務でもある。」

>「投資銀行業務で世界最大のゴールドマン・サックスの場合(表6)、本来の伝統的な投資銀行業務からの収入(64億ドル)は、純収入合計(306億ドル)の20・5%にすぎず

最大の稼ぎ頭はトレーディング業務(レポートでは「インスティチューショナル・クライアント・サービス」と表記)からの収入(144億ドル)であり、全体の47・2%を占めている。」

商業銀行として世界最大のJPモルガン・チェースの場合(表7)、預金受入と貸出といった本来の伝統的な商業銀行業務を源泉とする純金利収入(460億ドル)は割合を低下させ、純収入合計(956億ドル)の48・1%にすぎない。

他方で、投資銀行業務、とくにトレーディング業務(レポートでは「プリンシパルトランザクション」と表記)、資産運用管理業務などを源泉とする多様な非金利収入(495億ドル)が純収入合計の51.8%に達している
 このような傾向は、商業銀行の投資銀行化、「銀行さようなら、証券こんにちは」といった事態、つまりハイリスク・ハイリターン取引に傾注する現代金融資本のビジネススタイル・「カジノ型金融」独占資本主義を表している。」

 

  3 現代日本の金融資本とドル依存

  (1)3メガFGと2大証券の金融独占

三菱UFJ・FG、三井住友・FG、みずほ・FG 野村證券および大和証券

わが国企業の合併・買収に関係するM&Aアドバイザリーや債券・株式の引受・売出にいたる投資銀行業務から発生した手数料収入。

巨額の手数料収入のシェアは、みずほ・FG(7億2100万ドル、20・1%)、野村證券(5億3400万ドル、14・9%)、三井住友・FG(4億9300万ドル、13・3%)、モルガン・スタンレー(4億2000万ドル、11・7%)、大和証券(2億5000万ドル、7・0%)のトップ5によって、67・5%のシェアが独占されている。日本に進出した欧米の銀行を加えた上位20社のシェアは、88・5%に達する。」

「日本には、全国銀行116行・証券会社252社(2015年)が営業しているが、投資銀行業務ではわずかトップ5が67・5%のシェアを独占している。銀行業務の集積に目を向けると、最大の金融資本である三菱東京UFJ銀行の口座数は、国内の個人でほぼ4000万口座(日本の世帯数は約5300万)、法人で40万社、世界48ヵ国(日本を除く)、約1200拠点のグローバルネットワークを構築し、持株会社の従業員数(連結)は、10万8153人である。」

  (2)ドル建て貿易と外貨準備

「 円建てで行われる日本貿易の割合は、輸出で36・2%、輸入となると24・5%にすぎない。

国内通貨は円なのに、貿易ではアメリカドルに依存し、輸出で51・3%、輸入となると69・0%に達する。2010年以来の日本の最大貿易相手国はアメリカではなく、中国であることを考慮すると、貿易の現状を無視したゆがんだドル依存である。

貿易黒字で受け取る通貨は円でなく、ドルであり、しかもそのドルは再びアメリカに投資され、国内経済の衰退に拍車をかける。」

「1.26兆ドル=141兆円に達する世界第2位の外貨準備高も、その内訳で85%を占める証券とは、日本政府が購入したアメリカ国債であり、また10%を占める預金もドル建てであり、ドルに偏倚した構成になっている(図2)。このようなドルに命運を握られるポートフォリオの組み方は異常であり、ドルが暴落したら日本の外貨準備は崩壊する。」

「民間資金も、公的資金も、アメリカ国債の取得、株式投資、直接投資など多様なチャンネルで日本からアメリカに資金が流入していき、ドルの傘のもとドル建て資産として積み上がる。世界最大の対外純資産大国は、ドル建て資産大国であり、円とドルとの為替相場円高=ドル安に振れたとき、莫大な為替差損が発生する。1%の円高になれば、外貨準備高では1兆4100億円の為替差損が発生する。民間資金を含む対外純資産は349兆円なので、1%の円高になれば、対外純資産大国では、3兆4900億円の為替差損が発生する。
 ドルに依存した現状では、自国の対外資産価値を維持するためには、自国通貨の円でなく、他国通貨アメリカドルの価値を擁護しなければならないという、ゆがんだ対米従属的な関係のもとにある。高度に発達し、世界第3位の経済大国の金融資本と金融寡頭制は、アメリカドルと「ウォール街財務省複合体」の強い影響下におかれている、といってよい。」

 まとめ〜金融的術策の「天才」たちの金融収奪〜

「 有価証券の発行業務から流通業務へシフトし、コンピュータプログラムを駆使した高頻度取引(HFT)で株式や債券を売買し、瞬時に巨万の金融収奪を断行する「カジノ型金融」独占資本主義は、金融資本の金融収奪の現代の到達点ともいえるが、人類にとって何らかの有用な使用価値をもつ商品を生産するのでなく、このプログラムを作成し、それを稼働させるシステムと、そこに投入される莫大な資金を所有するものだけの私的な利益を飛躍的に拡大するにすぎない。
 その対局には、超えることのできない経済格差と貧困が加速的にひろがり、拡大再生産される。2016年1月の世界経済フォーラムで注目されたのは、世界の資産保有額上位62人の総資産額が、下位50%、つまり世界人口の半分の人々の総資産に匹敵するまで格差と貧困が深刻化した事態であった。」

「「たとえ商品生産が従来どおり「支配して」いて、経済の基礎と考えられるにしても、しかし実際には、それはすでにまったく破壊され、主要な利潤は金融的術策の「天才」たちの手に帰するようになるほど資本主義の発展はすすんだ、・・・これらの術策と詐欺との基礎には生産の社会化があるが、ようやくこの社会化までこぎつけた人類の巨大な進歩が、なんと、投機者を利するようになっているのである。」

現代貨幣論MMT)について

【特集:とことんMMT(現代貨幣理論)】 対談 岩村充×小林慶一郎 「国の借金は本当に問題ないのか」 | キヤノングローバル戦略研究所(CIGS)

 W。資料② 以下の文脈は

  <資本主義主義の金融化とは何か>
  引用

「金融収益と実体経済が生み出すと富を区別しない経済学は金融化は新たな収益機会の拡大であり、資本主義主義の発展であると把握する。
これに対して金融収益は実体的富の再分配であるとする経済学は「金融化」は資本主義の行き詰まりを示す現象の一つとみる。←W?マルクス資本論」止まり、「帝国主義論」=金融資本論への展開もない。
① 日本をはじめとする先進資本主義国は大量生産大量消費を可能とする主要産業の市場が成熟化し売上高が伸びないという状況が続いている
②売上高が伸びないので設備投資も抑制的にならざる得ない。
③そこで大企業を中心に利潤を本来に事業拡大に使うのではなく、貨幣的に蓄積するほかないといった事態が到来している。

①→②→③→④ 昔の産業資本のイメージ。資本主義の初歩的原理論だな。
このように実体経済から引き上げられて④金融資産の蓄積に回らざる得ない貨幣資、それが金融化を支えている。
 金融市場に流入する貨幣資本の増大は証券形態をとった金融資産の価格を増大させ、キャピタルゲインのチャンスを拡大する。
しかし仕組債などいかに高度な技術を使った金融商品でもその基礎は住宅ローンのような
既存のローンの世界があり、
インカムゲインの世界があり、
インカムゲイン実体経済の動向によって規定される。
>だから現在は金融資産が膨張せざる得ない構造と
>その基礎をなすインカムゲイン実体経済の周期的同行の限界に直面せざる得ないという構造との矛盾が
周期的的金融危機として現れる時代なのである。」

***********************
B の青色マーカー部分、ハイエク的解釈の意味は政府の財政金融拡張政策によって過剰生産、過剰資本状況を吸収したケインズ流の政策がインフレと低成長によって経済苦境に陥った状況(スタグフレーション)に対する市場の自由重視、緊縮財政を対置した当時のハイエクの政策理論。~ただしこの状況は純経済過程ではなく、ベトナム戦争アメリカ敗北やOPEC台頭原油価格高騰などの政治的要因が加味される~それはサッチャーレーガン新自由主義経済政策の基礎理論となり、今日のグローバル資本制の日本欧米主要国の経済政策に影響を与えている。

 
 現下のグローバル資本制において、例えばポーランドの右派?人民主義政府の庶民をターゲットにした社会保障、福祉充実政策の予算の裏付けは無い袖を振ってまで予算を集中投下しているわけではない。

経済活況状態を背景にこのような財政政策と民族主義をマッチングさせてSNSを駆使して当該政党支持率を急速にアップさせてきた。
~その裏面では必ず資本流失側に金融空間酸欠状態、金融寡頭制の経済政治の度し難い状態が一対としてあり、当地の政治状況はポーランドのような牧歌的なものではない~
 

 グローバル資本制周縁部の経済活況には中央部の経済低成長、緩やかなインフレ、ノーマル状態の金融ヒエラルキー政治~が対応している。
~中心部の人民主義政党の民族主義と反ー緊縮の政策はリーマンショック以降、経済の金融化がさらに進展し階層分解が加速し(中間層の分解と下降圧力継続)金融寡頭制の実態が明らかになった今日の時代状況に対応する一形態にすぎない!グローバル資本制の政治上部構造に不可欠な政治物件となっている。~意識が存在を規定するのではなく存在が意識を規定する。
シジックはこういった中心部各国の右派人民党とポーランドなどの周縁部の右派人民政府の反ー緊縮の基本政策を同一平面上並べて前者を不当に過大に評価している。

それら人民主義の政党が政権の座についても80%の<取り残された人々>の物質的生活状況は改善されない。

その代わり排外主義的フラストレーションは絶え間なく醸成され次第に拡大し出口ない状況に閉じ込められる。そしてそういった状況を背景に人民政府の行き着くところは内外の政治暴力の行使となる。

>現にある党派やその周辺の政治環境が政権の座に就き国民全体を利益を考えて変身浄化されるわけがない。
強力な反対派が国内に存在する国では政治対立が一層過熱し結局は治安強化に結実するであろう。反対派の脆弱な日本のような国は支配党の政治方向にづるづるひっぱられて、行き着くところまで行くだろう。それは対外摩擦の激化の方向だ。

Wの究極的な意見は中心部のそういった人民主義党が政権をになってみるがよいと。
一種の身体論に裏打ちされた開き直りがいる。80%の人々の基本政策とは、その階層利害を体を張って普遍的に貫くことである。

 「真昼の盗人のように」 を引用する

「反移民を旨とするポピュリストは、みな次のような主張に全面的に賛成するであろう。

ヨーロッパのアイデンティティイスラム教徒や他の群れを成す難民の侵入によって脅かされている。

だが実際の状況はそれと正反対である。

>A、解放というヨーロッパの啓蒙主義の眼目にとって本当の脅威となるのは、反ー移民ととなえるポピュリストのほうなのだ。

マリーヌ、ルペンやヘルトウィルダースが権力の座に就くヨーロッパは、もはやヨーロッパではない。

我々が戦って守る価値のあるヨーロッパとはなんであるか。

フランス革命が真に革新的なところは、公民(共和国の国民)と人権を区別したことである。ここではブルジョア市民社会の成員が持つ権利としての人権という古典的なマルクス主義的概念は捨てなければならない。

公民は主権国家の政治体制によって規定される。

それに対して「人」は公民が公民の身分を奪われ、砲術で言う空き地に放り出され、抽象的な語る身体まで還元されてなお公民のもとに残存するものである。

公民の身分という縛り特殊な生活様式との間の厄介な関係を処理する際に、遍的人権を判断基準とすべきなのは、まさにこの意味においてである

この普遍的人権という羅針盤を欠いたとき、われわれは必ず野蛮になる。

一公民は共同体の一員であり、共同体の特殊な文化を他の公民と共有している。

それに対して一人の人間は、一公民の身分を奪われても残存するものである。

人権は特殊文化に対して外的なこの意味でしか「自然な」権利ではない。

人権は永遠の本質と何の関係もない

>A、なぜなら人権は、一公民がポリスからっ引き離された後において残存するものに適応されるからである。

>A、この意味で、人権の「自然=本質」は文化レベルによって遡及的(過去のある時点までさかのぼること)に生み出されたものである。

*その「自然=本質」は話す身体というゼロレベルまで縮減された人間に適応される。

ミルネールはこの人権の「下品な」物質性を強調する。この権利は集会を組織する、自由な言論を実践する、自由に意見を表現する等々の権利よりも基本的なものである。

もし個人からこの物質的なものが奪われれば、個人の上品な人権は消滅する。

人権とは何よりもまず、トイレ、キッチン、ヘルスケアにかかわる基本的権利である。

権利は排せつのための空間から始まる。

~~

ここでわかるのは、普遍的人権が~まさにその普遍性において~歴史的に生み出された特殊なものである、ということである。人権の厳密な範囲及び内容は、社会的政治的闘争の結果なのである。

 われわれは三つのレベルを考慮に入れる必要がある。

1、人権を有する人間という抽象的な普遍性

2、個人が属する特定の生活様式

3、この2曲を媒介とする景気としての公民の身分という個別性

(私は公民として普遍的である、だが普遍的なのは1国家という個別性に属するものとしてである。)この3つのレベルの相互作用は否応なく多種多様な困難を生み出す。そのことはラディカルな解放を実現する今日の試みにとって悩みの種である。

この困難に対処するためには、これとは別の普遍的なもの、、特殊なもの、個別的なものの組み合わせを導入しなければならない。

~~ここで個別的なものに当たるのはなんであるか。この要素は、レーニンへと我々を連れ戻す。

 レーニンの「ユートピア」の核心は1914年のカタストロフィの灰の中から、つまり第2インターナショナルの教えにけりとつける時に生まれる。

この核心とはブルジョア国家、つまり国家そのものを粉砕せよ、そして常備軍、警察、官僚のいないコンミューンの新たな社会形態を生み出せ、というラディカルな命令である。」