反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

<明治5年の改暦>について調べてみた。「旧暦では翌明治6年が13か月になるため」 W注。さらっと書いているが深堀しなければ下記の嗤える事態は理解できない。

  小島毅の『天皇儒教思想

この本の正式名称は

天皇儒教思想 伝統はいかに創られたのか? (光文社新書新書 – 2018/5/16

  AMAZON書評レビューより

 実理さん 
 <目次>
 第一章 お田植えとご養蚕
 第二章 山稜  W.古墳のこと違うかな?
 第三章 祭祀
 第四章 皇統
 第五章 暦 こよみ  W。興味ある。遣唐使は<こよみ>、を中国から持ち帰った。
 第六章 元号

第一章から儒教の儀式を明治政府が取り入れた実証が細かく説明されている。第三章の祭祀で、儒教祭祀の内容を少々くどく説明している以外、文章は簡潔で読みやすく、要点も良くまとまっていて分かりやすい。中国思想、特に儒教の専門である著者ならではの、詳細で確かな内容。予備知識がそれほどなくても理解できるように書かれている。」

  

  毎日太郎

第5章の「暦」では、なぜ、七夕は梅雨の時期なのかという著者の疑問から暦についての論点整理を行う。
明治5年の改暦については知っていたが、旧暦の行事は旧暦で行うべきでないかという論点を明確にしている。

明治5年(1872)11月9日、太陰暦を廃し、太陽暦を採用することの詔書が発せられ、太政官布告第337号により公布されました。 1年を365日とし、それを12月に分け、4年毎に閏年をおくこと、1日を24時間とすること、旧暦の明治5年12月3日を新暦明治6年1月1日とすること、が定められました。」

明治5年 - Wikipedia

引用

明治5年12月2日⇒西暦1872年12月31日をもって太陰太陽暦天保暦)を廃止し、その翌日(W.太陰暦12月3日=明治6年1月1日)からグレゴリオ暦に移行[1]

>1873年明治6年1月1日となることとしたため、明治5年は12月3日から12月30日までの28日間が存在しないW。嗤える!」⇒W。突然の改暦の強行は、旧暦では翌明治6年が13か月になるため
W注。さらっと書いているが深堀しなければ下記の嗤える事態は理解できない。

      ↓ W。狡猾である故意に旧暦ではうるう年、13ケ月になる明治6年を旧暦で押し通すことを避けた。徳川幕藩体制下の役人は旧暦のうるう年調整の13か月目の「余分な碌」を受け取っていたのだろうか?それともうるう年の暦の調整だけで碌は受け取らない習慣があったのか。そもそも月給制であったかどうかという前提がある。年貢(主に米)を換金して碌にしていた藩が多かっただろうから、月給制は考えられないが。

いずれにしても徳川幕藩体制下の下級藩士であった明治絶対主義政府の高級官僚は旧暦明治6年度は余分な13か月目の給料の問題が出てくると事前に知っていた。そう考えると新政権の財政難のなかで事は姑息、というかなかなかしぶとい緻密な政権運営だったといえる。

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    W。参考資料

松方デフレ - Wikipedia

 秩父困民党蜂起の現地を散策したことがある。松方デフレ政策は養蚕業の盛んな秩父地方(デフレで繭の価格低下、借金困窮)の農民蜂起の時代背景として押さえておくべきこと。松方デフレ政策と日清戦争による賠償金獲得は日本資本主義の原始蓄積期の重大事案である。

     松方財政の影響

  引用

「一部の農民は、経済的困窮から、蜂起活動に走り、各地では自由党による激化事件(W困民党蜂の際、現地の自由党は傍観者。ここ大事なところ!農民大衆の自然発生的な蜂起であった。自由党による激化事件の地方の基本戦術は地方の豪農篤志家、知識人によるテロ行為でありほとんどは未遂に終わった。国会開設の天皇発言によって鎮静化し議会戦術に転換する)に参加して反政府的な暴動を引き起こすようになった(当時、農村は自由党の支持基盤であった)。

また、官営工場の払い下げにより政商財閥へと成長していった(W,ソ連崩壊時期に国有財産が海外に流出あるいは即席資本家に簒奪された。ユダヤ人ルートが暗躍した。最初のボタンを二つも三つも掛け外して結局、プーチン強権ポピュリズムに行きついた。)ことと相まって、資本家層と労働者層の分離という資本主義経済の下地を作ることとなったW。日本資本主義の原始蓄積期である日清戦争による賠償金獲得は政府財政に多大な貢献を果たした!

引用

西南戦争の戦費調達のために不換紙幣(信用の低かった太政官札等)が濫発された事によって、戦争後に大規模なインフレーションが発生していた。当時の大蔵卿大隈重信はこのインフレーションの原因について、経済の実態は紙幣流通量に近く(W.状況判断が間違っている

ただし生糸などの当時の花形輸出産業にとってインフレの影響は小さく、輸出品の対価が増え景気が良かったのではないか?

>今でいえば自動車産業や資本輸出している企業は円安によって円建て対価が増える=国内の企業間、個人間の格差拡大のスピードが上がり、政治不安が高まり、東アジア情勢への対応が硬直化する!)本位貨幣である銀貨が不足しているだけだと考えて、「積極財政」を維持して外債を発行してそこで得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると主張した(大隈財政)。一方、次官である大蔵大輔の松方は単に明治維新以来の政府財政の膨張がインフレーションの根本原因であって不換紙幣回収こそが唯一の解決策であると唱えた。」

  

松方財政による対策 W.金融制度の確立(銀本位制⇒金本位制)と財閥形成、資本の原始的蓄積に貢献した。

「松方は不換紙幣を回収・焼却し、1882年日本銀行条例を公布して日本銀行を設立する。国内的に余裕があった銀貨に基づいた銀本位制の導入をめざして、「緊縮財政」を実施した。また、これに要する政府資金調達のために、政商への官営模範工場払い下げ、煙草税酒造税などの増徴による歳入増加策、軍事費を除く政府予算の縮小等により紙幣発行量を縮小していった。

>対策の結果、 明治14年1881年)度の紙幣発行高1.5億円に対し、本位貨幣(銀)の準備高が0.1億円(準備率8%)だったのに対し、明治18年1885年)度には、紙幣発行高1.2億円に対し、本位貨幣(銀)準備高は0.45億円(準備率37%)まで回復し、銀本位制導入への基礎が成った。同年には満を持して銀兌換紙幣日本銀行初の発行紙幣、大黒図案)が発券され、銀本位制が導入された。また日清戦争の賠償金による金準備を元に、明治30年1897年)には、松方念願の金本位制が導入されることになる

  W参考資料

②この参考資料の方が新暦、旧暦を解りやすく説明してくれている。

釣りをやる人にとって、潮の満ち引きは釣果に絶大な影響を発揮する。潮干狩りに行くときは満潮は駄目。地域によって干満の差がものすごく大きなところがある。

fishingjapan.jp

 w参考資料

中国暦 - Wikipedia

中国の暦法はいわゆる太陰太陽暦であり、1月の長さを月齢約29.53日を基準に1年における月の配列を太陽の運行を基準に定める。

新月を0として数えたときの日数で、月の満ち欠けの度合いを示したもの

 


~~辛亥革命以後に太陽暦グレゴリオ暦)が採用されるようになる。

   ↓

1911年宣統3年)から1912年民国元年)にかけて、で発生した共和革命である。名称は、革命が勃発した1911年の干支である辛亥に因む。10月に孫文の影響を受けた革命軍が武昌漢陽を武力制圧

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明治維新早々に財政難を起こしていた明治政府が、官吏(役人)に対する13か月分の俸給の支払いを免れたかった事が背景にあるとされる。さらに12月の分についても2日間しかないことを理由に俸給の支払いを省略しており、結局2か月分を改暦によって節約している。」

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「  太陽暦

太陽暦では、季節に暦を一致させるため、暦年の平均の長さを平均回帰年(365.242 189 44日≒365日5時間48分45.168秒[1])になるべく一致させる。

太陽暦では、平年は365日であり、閏年閏日が挿入されて366日である。現在広く採用されているグレゴリオ暦では、閏年は400年間に97回ある。

グレゴリオ暦では、次の規則に従って400年間に97回の閏年を設ける。

  1. 西暦年が4で割り切れる年は(原則として)閏年
  2. ただし、西暦年が100で割り切れる年は(原則として)平年。
  3. ただし、西暦年が400で割り切れる年は必ず閏年

   古代エジプト

古代エジプトの暦には閏年はなく、1暦年は常に365日であった。そのため、4.129年に1日の割合で暦と季節がずれた。当時すでに回帰年は365.25日という観測値が得られていたが、暦に反映されることはなかった。農民は暦ではなく恒星シリウスの動きを頼りに農作業のスケジュールを決めた。