***その他の松本清張作品朗読
敗戦2年後、北海道利尻島でしか観測できない金環食を巡る、敗戦による新聞紙不足でまだ紙面が2面しかない頃のGHQ占領軍の政治経済イデオロギー統制下、日米(その他)の天文学者の金環食の定点観測地点をめぐる相違を報じた1新聞記者の身の上に~そして新聞社の対応は~~。
日中、太陽に月がぴったり重なる数秒の瞬間~キモは金環食の正面に入る利尻島数百メートルの定点を天文学上の計算で特定すること。この定点が日米で数百M相違~どちらが正解なのか、金環食観測結果で判明⇒敗戦日本の天文学者の計算が正解だったが、一面トップで報じたたった1紙の記者はGHQ当該局に呼び出された。
日本天文学の勝利と報じた報道姿勢は敗戦で打ちひしがれる国民感情を鼓舞する意味合いが込められていたが、GHQ当局の日本占領政策のガイドラインからはみ出るものだったのか。GHQは敗戦日本と日本国民より(マッカーサーが天皇よりも上位)も強く正しくあることが占領政策の核心だった。
>物語は当時、実態にあったことの一部(Wの想像?)を松本清張、得意のリアリズム筆致で畳み込むように展開していく。当該天文学者及び記者の現場実感の描写がドキュメントタッチで続き。生々しい臨場感を醸し出している。
>なお、金環食観測の副産物として、旧来の日本列島の地球上の位置が600Mズレていたことが判明した。
アメリカ側は金環食観測定点はおそらく旧来のズレた日本列島の位置だったのだろうか。天文学上の計算できちんと割り出せなかった。
1949年湯川秀樹 - Wikipediaノーベル賞受賞に通じるものがある。
引用
「 原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。」
当時のアメリカ天文学界よりも日本天文学が金環食観測の正確に定点を割り出していたのだから、主人公の新聞記者の報道は真実だったし、湯川秀樹の中性子発見に通じる目の付け所も鋭い。しかし、新聞社は対応に苦慮し、~~。この辺の結末のつけ方が日本的だ。
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W。柳家小三治師匠の朗読。
八丈島送りのいびきの激しい流人の話。<左の腕>同様に時代考証がばっちり効いている(司馬遼太郎も同じ)ので安心感がある。松本清張の時代物は山本周五郎よりも面白い。山本周五郎は独特の語り口の世界に同調できる(時代物の安易な約束事了解)読者を対象にしている感がする。円本作家の流れの時代物小説家かな?芥川賞受賞で世に出た松本清張とは筆力に格段の差がある。
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>W、モチーフは飢餓海峡 - Wikipedia1962年週刊朝日連載(水上勉)、に似ている(そこまでのスケール感は無いが)。
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ここから先は反俗日記の地歴趣味に従って、<左の腕>の朗読の冒頭、舞台である深川西念寺横の料理屋まつばやと近辺に纏わる話題を広げていく。
イロイロ雑多な地歴的事実を取り上げながら、<「左の腕」>当時の深川をイメージするのもおつなものだ。
古典落語や江戸庶民を描いた歴史小説の舞台は意外と日本橋とかの中心街(繁華街)~~5街道に起点は日本橋~~や繁盛店の並ぶ街並みではなく場末、それも庶民が肩を寄せ合って暮らしていた貧乏長屋の連なっている一帯が多い。
古典落語でよく出てくる江戸唯一の公娼街であった吉原も
明暦の大火 - Wikipedia(1657年3月2日 - 4日)契機に
最初の中心部(浅草よりも江戸城より人形町)から場末の浅草日本堤山谷方面に移転させられた。
明暦の大火の焼失地域。①は1月18日の出火地点・本郷丸山本妙寺、②は1月19日の出火地点・小石川伝通院表門下、③は1月19日の出火地点・麹町
この火災の特記すべき点は火元が1か所ではなく、本郷・小石川・麹町の3か所から連続的に発生したもので、ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においてはその全てが、焼き尽くされたことである。
このことは、のちに語られる2つの放火説の有力な根拠のひとつとなっている。
本妙寺失火説
W.妙齢の少女、お寺参りの途上で青年に一目ぼれ、恋の病で病臥に付し、遂に~振袖を寺で燃やしたのが火元~の下りは古典落語の名作にあるパターンで嘘っぽい。
>「この伝承は、矢田挿雲が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著している。伝説の誕生は大火後まもなくの時期であり、同時代の浅井了意は大火を取材して「作り話」と結論づけている。」
幕府放火説
江戸の都市改造を実行するため、幕府が放火したとする説。
本妙寺火元引受説
本来、火元は老中・阿部忠秋の屋敷だった。しかし「火元は老中屋敷」と露見すると幕府の威信が失墜してしまうため、幕府が要請して「阿部邸に隣接する本妙寺が火元」ということにして、上記のような話を広めたとする説。
これは、火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか、元の場所に再建を許されたうえに触頭にまで取り立てられ、大火前より大きな寺院となりW、焼け太りは当人たちの努力でそうなったのではない!偶然でもない。第3者の援助故。
さらに大正時代にいたるまで阿部家が多額の供養料を年ごとに奉納していることなどを論拠としている。江戸幕府廃止後、本妙寺は「本妙寺火元引受説」を主張している。
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W.<左の腕>の舞台は深川、西念寺横にある料理屋と左の腕の一部を布で巻いて隠して奉公することになった年老いた父親と年の離れた同じ料理屋に奉公する器量よしの娘。因業、目明し。これ等の登場人物と威張り腐る目明し、最後の場面で登場する**たち。ディテールは融合し時化た世相を表し、立ち入って時代背景を検討する材料になる。⇒天保の改革 - Wikipedia
を時代背景とすればこの物語はすんなり受け取れられる。
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公娼街以外の私娼街である岡場所 - Wikipedia
引用
「江戸において、唯一幕府公認の遊女屋(女郎屋)を集めた遊廓である吉原に対して、それ以外の、非公認の私娼屋が集まった遊郭のことである。「岡」は「傍目」(おかめ)などと同じく「脇」「外」を表す言葉である(例:傍目八目)。
岡場所
「吉原の浅草堤移転、W注①にともない、湯女風呂に替り、江戸周辺部の寺社門前地の茶屋から発展した。宝暦から天明年間にかけて最盛期を迎えたが、寛政改革における統制強化により、整理統合が進められた。
によって岡場所は廃絶され4宿に限定された。
(貨幣経済進展による藩幕経済と体制の緩みに対して強権発動による綱紀粛正。贅沢禁止、国戻し)。(品川宿<東海道>、内藤宿(新宿)<甲州道>板橋宿<中山道>、日光宿<日光道(奥州道)>)
岡場所は私娼窟だけでなく、寺社門前地や広小路に展開した盛り場を形成する要因の一つであった。」
>W。なお天保の改革について納得できる解説がネット上で短時間で見当たらない。相変わらず通常の歴史教科書的な解説に甘んじている。もっとグローバルな視点で幕藩体制末期と欧米や清朝の同時代と比較した方が天保の改革は解りやすい。
江戸時代の人口停滞(清朝でさえあり得なかった。中国と日本の近代の人口差はこの時代に開いた。)は政治体制の不備を証明している。
日本列島巣ごもり状態だったのでその矛盾に蓋をされていた。
他方で、ムラ年貢請負制度【同調圧力、異端排除、組織団体優先(前記事で挙げた新聞記者の末路)】は一揆はあっても数百年維持されてきた、という魔界的不思議が明治「いしん」の人民統治と資本制的収奪へのスムーズな移行を保証し今も機能している。
年貢を挙げる農民に対して封建軍事貴族の人口が多すぎる(僧侶その他の非生産人口もふくまれるので)「いしん」勢力薩摩長州土佐、士族多すぎて庶民生活で実利への覚醒早い。当然、封建搾取率は高くなり人口の圧倒的多数を占める農民人口は余剰物を召し上げられるので増えない。年貢上納の主体である農村の慢性的疲弊から人口の都市集中も歴史的傾向となる。人工都市集中の傾向が続けば、農民収奪で生きる日本的封建軍事貴族の経済は苦しくなる。ま、毎回ぶり返す江戸再評価論は以上の農村ー武士階層ー都市の社会経済構造をトータルとしてみず、都市住民の生活風俗に焦点を当てて自己満足している感がある。
城下町のサムライにとって余りにも町にヒトが農村から集まってもらっては治安上の経済上も手間がかかるし困る。江戸時代の3大改革はこの辺の武士階層の本音を代弁したものと言えなくもないが、今の時代の我々にとって感覚的に解らないところではある。ゆえに各改革の実装に今一リアル感を持てないでいるのだ。
>外国勢の列島接近と貨幣経済の発展(先端産業は天保年間の大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生など北関東の絹織物業において、既におこなわれていたマニュファクチャー工場制手工業段階)が相まって、経済体制は絶対主義への移行を不可避にしている歴史段階にあるにもかかわらず、
政治体制は幕藩体制という日本的封建体制(藩地方自治と幕府中央集権の股裂き~~国内市場と外国貿易への障害物~~)の枠内でしか運用できない内外矛盾が一気に噴き上げてきた時代への超反動的強権的精神主義的諸政策(欧米の目線~株仲間?!て資本形成ができないから発生する中世的遺物)を決断することによって、
日本的絶対主義権力確立に向けた列強監視手引のもとでの内乱を歴史圧縮的に手繰り寄せるしかなかった。
W注①
日本堤の上に茶屋。向こうに吉原遊郭。手前の省略された土地は堤の完成によって隅田川の氾濫から守られるようになった田。吉原遊郭の周囲は塀。吉原は日本橋から北東、郊外にある。
~~~江戸の田舎、深川が発展したのは明暦の大火 - Wikipedia
以後の江戸都市大改革によって両国橋が完成して以降~大名屋敷も郊外に移るものが増えた~江戸は100万都市に膨れ上がっていく。
W.物語の舞台は深川西念寺近辺の横丁。西念寺に該当する寺は無いが、調べた結果、赤丸点付近と思われる。
深川公園は明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となった(地図右寄りの富岡天満宮)の別当の寺、永代寺跡。
永代寺(別当寺)⇒富岡八幡宮(宮司)の関係は典型的な神仏習合の仕組みで別当が神仏習合の仏神事(神社の神々の象徴は仏)と封建行政の一環である檀家戸籍を握っている関係もあり宮司の上位に位置する。~この辺の理屈は無知だが、結局は寺と神社のどちらが幕藩権力の統治機構に組み込まれその一端を(担っていたか)の問題!
当然にも幕藩体制への恨みつらみの鬱積は身近な寺檀家秩序に向かい神社の素朴な求心力(祭り)は庶民に緩衝システムを提供する構造もあった。
「いしん」国家権力は天皇支配秩序確立のために強制的に寺⇒神社の神仏習合関係を廃棄し有力神社の別当寺を強制的に取り潰した。欧米軍事力が見守り加担された内乱の主力軍事力となった薩摩、長州では廃仏毀釈は徹底して行われた。同時に全国で日本のコレまでの伝統的な習俗文化が末端の「いしん」被れによって排斥され絶対主義権力樹立とともにアジア蔑視が広がった。
<左腕の腕>の時代背景は幕末の家斉長期政権のインフレ経済【悪貨乱発も要因】と飢饉~売り惜しみ買い占め~(小氷河期)に対する幕府役人大塩平八郎の乱や百姓一揆の連続、都市部の治安のかく乱と欧米の圧に強権で対処した天保の改革の時代だった。 吉原以外の遊郭は4つの宿に制限されていた。
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(旧岡場所、深川の料理屋に奉公し始めた左の腕の老人の若い娘は同じ料理屋に奉公していても売春の気配は描かれていないが目明しが狙っている)
柳家小三治師匠の朗読は滑り出しはゆっくり、そのうち興が乗ってくると古典落語の名作を聴いているように錯覚さえする。ディテールがしっかりしている松本清張の描写は無駄を排除し精緻適切で物語に没頭させる。
>最後にオチがある。多かれ少なかれ、事情は違えどこの種の姿勢で己に向き合うときがくる。ただし極めて具体的に!だから迷い苦しみ、神様仏様お天道様が必要になる。