反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

マスコミ主導による大臣失言、簡単辞任劇は日本が右肩下がりになったバブル崩壊以降の傾向。なぜだ?丸山真男、政治学を適応して考えてみた。

 「世に噛む日々」さんの9、11付けのブログは非の打ちどころのない、真っ当な意見である。
単なる怒りの表明に終わらず、、論証過程もしっかりしており、そこで彼の安定した政治観が披露されている。
 
 政治のど真ん中には、正しい事と正しくないことの価値判断の明確さが必要。
ここが灰色になってはいけない。
灰色ならば、その政治は弱い政治である。内外の困難から、国民を守ることができない。
その価値判断は、まず何よりも、国民から選ばれた議員がすることであり、マスコミがやることではない。
 
だがマスコミは結局は私的営利資本に過ぎないのに国民の意見の代行を僭称し、事実上価値判断をして、政治家の価値を得手勝手に決めている。
 
 ハッキリ言って、マスコミ主導の大臣失言、簡単、辞任劇なんてのを、繰り返している国は世界中で日本だけである。
日本の政治家はいつでも微罪ででっちあげ逮捕できる特捜検察の監視下にあり、マスコミから云った云わない、表現の彩の言質を取られ、小心翼々と政治活動を行う環境におかれている。
 
 ところが、「世に噛む日々」さんも指摘している様に、一部の政治家はいくら放言、差別発言しようが、執拗に追及されない。野放し状態だ。
 
そして、それらの政治家の煽動的要素一杯の発言と人物をズラッと並べてみると、一つの傾向があることが解る。
 
 明確に、マスコミ首脳は自分たちで勝手に価値判断し方向づける予定調和的な将来の日本の政治方向に、それらの政治家をアイテム化しようとしている。
 
 >マスコミ幹部は今やもう、そこまで図に乗った政治的な存在なのである。
 
 >日本経済の停滞の中で政治は苦戦を知られる傾向がバブル崩壊後ズット続いており、本当のところ、決め手になる処方箋はない。実際上、バブル崩壊以降、政策的に八方ふさがりの状態であり、日本の世界に占めてきた経済的地位は下落しており、それとともに国民の生活経済環境もジワジワト悪化している。
 
>こうした内外環境の継続は政治全般への批判の強まり、期待と失望観の繰り返しが短期的に連続など、結局は政治家個人への攻撃の素地を醸成する。
 
 その中でマスコミのやって来たことは、初期中期の段階では流れに安易に竿さしているだけだった。
 
 >しかし、小泉政権以降の奴らの、行動パターンは明確に違ってきている。小泉政権を主導した成功体験をもとに編集方針、報道姿勢に積極的な政治性を持ち込んでいる。もはや、事実上、不偏不党とか「社会の木鐸」などというGHQ時代に与えられた特権と引き換えのエセ、民主主義(アメリカ中民主主義)はかなぐり捨てられている。
 
 要は、本家のアメリカの戦後的民主主義がベトナム戦争敗北などアメリカの国力低下の経過の中で市場原理主義的民主主義に変転したことに迎合している事。さらには、ブリッグスの様な潜在的経済力を秘めた国や韓国の様な輸出特化国の出現で日本経済がバブル崩壊以降停滞している事への危機感もある。
 
 マスコミ事態が非常にイデオロギー色、政治色を強め、危機に際して、国民間に実際に拡大していく亀裂、格差をイデオロギー洗脳で隠ぺいし、国民として何とかひと塊りに統合しようと画策している。
 
 言い換えると、あらゆる処で進行せざる得ない格差拡大に事実上、竿指している。
 
 そこでこうしたマスコミ犯罪の原理的構図を最近凝っている丸山真男の著書からの引用で明らかにしたい。
かなり長くなる。肝心な点は彼得意の学者言葉の連発になっているので長くなるが前振り引用しなければ、解り辛い。学者言葉の肝心な部分に「マスコミ」と埋め込むと、リアル理解できる。
 以下、丸山真男「ある自由主義者への手紙」より引用。
 
「非政治的私的環境(例えば家庭)なり、職場その他生活領域の中に閉じこもって、主要な関心が、自分と家庭の生活のための配慮とか、家事のルーティーンとか、ぼろい金儲けの方法とか、来週の映画、スポーツの行事とか、強姦殺人事件の成り行きとかに向けられていて、政治状況に対しては、投票とか組合総会の呼び掛けられた場合だけ、パッシブな反応を示すにとどまり、重大な政治事件に対して一見積極的な関心や興味を持つ場合でも、結局それを競馬やスリラーに対すると同じ次元で受け止めている様な圧倒的多数の、政治的意味での非自覚的人々がいるわけだ。
 なるほど、意識は低いかも知れないが、それだけ自覚分子やインテリ、疑似インテリに比して主観的イデオロギーと客観的行動様式のギャップは少ない。
 
<<しかもまさにこの非政治的大衆の政治的領域で営まれている無数の日常的な行動が{複雑な屈折経て}
表面の政治舞台に反映し、逆にそうした政治舞台で示された一つ一つの決定がこれまた{複雑な屈折を経ながら}日常生活へと下降していく。
  この{二つの方向の無数の交差}から現実の政治のダイナミックスが生まれてくるのだ。>>
 
 まさにここに現実分析の異常な困難さがある。
政治の方向を目に付きやすい派手な政治現象だけから判断したり、狭いインテリのサークルだけに現れた傾向をさも支配的な動向の様に思いこんだりすると、現実からとんでもないしっぺ返しを食うことになる。
概念的なイデオロギー図式の危険性はまさにここにある。」
 
>>丸山がこれを書いたときが1950年、戦後のラジオキー局、開局の頃。まだ今ほどマスコミが政治場面で重要な役割を果たしておらず、政治は人的要素の伝達、関連で動いていた。
しかし、丸山は民衆と政治の伝達ルートの構図をハッキリと掴んでいる。
{複雑な屈折}の部分は以前は人的要素に頼っていたが、今やマスコミ媒体資本が占拠していると云って過言でない。
 しかも日本ではGHQが戦前意識の民衆に対してにマスコミを使った啓蒙(洗脳)した見返りとして特権を付与して、それが未だに継続している。
 全国紙、キー局は多すぎる。多すぎたら、次元の低い競争が常態化する。それが特権と加味されている処に問題がある。記者クラブ、私的資本の経営の特権、温存。