反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

引用。宮本百合子「1932年春」より、講演先で3月28日付、東京朝日新聞社会面によって、同志たち多数の検挙を知って、怒りに燃えて突如、情勢分析。アジっている。

 文学全集を読んでいると本多秋五という評論家が宮本百合子に高い評価をしていることをしった。
本多秋五等の戦後近代文学派といわれる人たちは、戦前共産党の活動家、ないしは周辺にいて治安維持法で検挙された経験を持ち、戦後は共産党との間に一線を引いて、文学活動を開始した人たちである。
その本多がなぜか宮本百合子に高い評価を下し、数本の評論を書いている。
一貫して共産党とは距離を置いてきた野上弥生子宮本百合子とはズット親しい交流を持ってきた。
宮本百合子の「風知草」(ふうちそう。観葉植物)にはそれらしい場面が描かれている。
 
 そういう訳で、今まで食わず嫌いであったバリバリの共産党党員である作家、宮本百合子を読んでみることにした。
ちなみに、宮本百合子は戦前に共産党幹部の宮本顕治と結婚するまで、作家、中条百合子として活躍していた。
顕治が治安維持法で長期投獄されてから、宮本姓を名乗るようになった。
 
 宮本百合子は戦前戦後を通じての日本の女流作家として屈指のレベルにあると解った。
文章に落ち着きがあり、よく練れており風格がある。青春時代の小説の作風は日本小説の本流の中にあるもである。プロレタリア文学の作家となって以降の作風も本質的にプロレタリアリア文学作家というよりも、日本の正統派の作家のものである。
 
そういう意味で、本多や野上の高い評価がるのだと思う。志賀直哉的自己充足型の作家との評は間違いでない。一般的評価は作品の完成度、レベルからして低すぎる。
 
中条百合子ペンネームのまま押し通すべきだった。共産党政治の枠にはまって、作家として、力量に比べてかなり損をしている。夫として選んだ相手が悪かった。
 
 >華麗な経歴のお人である。
本人は小説の中で、自らの出目を中流の上層としているが、彼女が中の上であるならば、その上は華族か、財閥系のブルジョアしかいない、それくらい出目は戦前の上流系統である。
 
 太宰治のような本質的に成り上がりモノの半封建的な田舎大地主と違って、実家は大正デモクラシーの雰囲気の充満する家庭だった。
 
 この辺の比較から、戦前日本の一番、自由だった時代、大正デモクラシーあり方がよくわかる。
それは大都会の一部の人たちの間にある自由、一部の人たちの観念の中にある自由であり、それ以外の世界は資本の金儲けの強欲体制、文武の官僚体制、半封建的な地主支配のムラ社会である。
大正デモクラシーの生息基盤はそのいずれでもなかった。当時の日本社会経済のごく薄い表皮であった。それも一部の。
 
 従って、内外情勢が激変に向かうと、一部の極薄表皮は簡単に拭いさられる。
現状の日本民主主義制の中身の変更を観察する場合、以上、述べた歴史的事実は決して過去として固定されるべきものでない。歴史は螺旋的に発展して繰り返す。特に日本のような歴史的に隔絶性の強い社会ではその傾向がある。
 
 作家としての宮本百合子のテーマは出目に対して自然体でり、太宰的実家への反抗、こだわりはない。
本の経歴には「小市民的な排他的な両親の家庭からの脱出」という観点が書かれている。なるほどそういう見方もできるが、小説から伺える実家の雰囲気からしれば、、かなり見当違いではないか。
そもそも、実家は小市民の範疇から大きく上に飛び出しすぎている。
 
 排他的?そうかな?両親は子供たちの才能を信じて、できるだけ伸ばしてやりたいとしている。
百合子が治安維持法で留置されたとき、母親が面会に来て、転向を迫るのは、出身階層からすれば、極普通のことである。
 
 父親は日本郵船本社ビルなどを設計した著名建築家、母親は歌人である。
小説に描かれている実家で、百合子がしゃべっている言葉はいまや死滅した、気持ち悪いほど上品な東京、山の手女性言葉である。
 
 1916年、 18歳。日本女子大英文科予科入学、母とともに坪内逍遥を訪ね、執筆した「貧しき人々の群れ」の批評を受ける。「中央公論」に掲載。
1918年、 仕事で渡米する父親に連れられて、アメリ東海岸に留学(遊学)。
1919年、 留学先で、10歳以上、年上の古代東洋語研究家、帰国後大学講師と結婚。
1924年、 夫と別居。
1927年~28年、 ロシア文学者、湯浅芳子(ゴーリキなどの翻訳は、名訳である)とともにソビエト滞在、帰路、ベルリン、ロンドンなどを訪問旅行。
1930年、31歳。 ソビエトに残って仕事をするよう片山潜にすすめられたが帰国。日本プロレタリア作家同盟に加盟。
1931年、 作家同盟中央員、非合法状態の日本共産党入党。宮本顕治と知り合う。
1932年、 宮本顕治と結婚。4月初検挙。9月再検挙。
 
 >5、15事件発生。武装した海軍青年将校首相官邸に突入して犬養首相殺害。それ以外にも、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、被害は軽微。
 
現在からの事件の評価を、詳しくグーグルからコピーする必要がある
「1)犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に入らない点だったといわれる。22)不況以前、大正デモクラシーに代表される民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義者などの革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をしており、それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたといわれる。
3)犬養は中華民国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友だった。ゆえに犬養は満州地方への進軍に反対で、「日本は中国から手を引くべきだ」との持論をかねてよりもっていた。これが大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥に邪魔となったのである。犬養が殺されたのは、彼が日本の海外版図拡大に反対だったことがその理由とも考えられる」
 
1)ワシントン軍縮会議の結果、締結された軍縮条約は1922年関東大震災、ドサクサに紛れて朝鮮人虐殺、大杉栄や戦闘的労組活動家殺害が当時の警視庁幹部正力松太郎によって、仕組まれたのが1923年
 
>従って、1)や2の事態は5,15事件の10年も前のこと。
特に2)は一部にあったことを時代の空気のように描いた誇張であろう。
 
1932年5、15事件発生の時点では時代の雰囲気はガラッと変わっている、としなければならない
実際に百合子など、共産党関係者への治安維持法を根拠とした弾圧が始まっている。
1931年、共産党の非合法状態にあった。
1929年、世界大恐慌だが、もうそれよりもズット以前に第一次大戦後の好景気のリセッションによって経済停滞が継続している。
そもそも、1922年のワシントン軍縮条約において日本海軍の戦艦鉱区母艦保有割り当ては米英5、に次ぐ、日本3であり、「英国海軍大佐は、最も利益を得た国を日本、最も犠牲を払った国をイギリスと評し、本軍縮条約を『大英帝国凋落の象徴』と位置づけている。」グーグルより。
 
 もかかわらず、1930年代には海軍や民間ファシストどもにはには軍縮への不満が渦巻いたのである。
さらに、政府は大恐慌からの脱出手段として、金本位制廃止、低賃金による安価な商品の飢餓的輸出攻勢の一方で、金融緩和による軍拡予算増強を実行している
1928年、関東軍による張作霖の搭乗列車爆破、殺害。
1932年3月満州国布告。
1933年、満州国が全会一致で不承認のため日本国際連盟脱退。
 
以上の歴史的事実にキッチリと踏まえるならば、グーグルの5、15事件解釈は誤解を生むモノとしなければならない。何か日本に別の選択肢の可能性があって、それを軍部が強圧して戦争の道を主導したかに、錯覚させる記述である。弾みのついた時の歴史の激流への理解がない。戦争の道以外に日本の選択肢はなかった。
最初は緩やかな坂道が急坂になり、戦前日本は敗北の道を転げ落ちたのである。激動する時代の不可逆的ダイナミズムである。
5、15事件は1936年の2,26事件にまっすぐに連動してしまったのであり、その先に東亜、太平洋戦争の事態が不可避だった
実際に宮本百合子は検挙された警察留置所で両事件の報を聞いている。
 
宮本百合子小説「1932年春」から。突如、アジっているフレーズ。以下の情勢分析の過半は正確である、所に注目する。今の日本と世界の情勢について、きちんとした分析は耳障りなところが多くても過半は正確である。
マスコミ情報は当時も今も程度の差はあっても、当てにできない
自分で情報収集して、自分の意見は持つべきである。でないとこれからの時代に生きる本当の価値がない。
 
「封建的絶対主義的日本帝国主義満蒙侵略、中国再分割の戦争を開始している
この侵略戦争満州国お手盛り建設で終わる性質のものでなく
ソ同盟への侵略と第二次帝国主義世界戦争への口火であることは、十分明らかである。
しかも、列強ブルジョアジーの計画する第二次世界戦争は彼等にとってフルな条件を持っている。
社会主義主義国家ソビエト同盟の確立と5カ年計画の成功。
インド、アフリカ、ラテンアメリカ等の植民地大衆は今日、第一次大戦のときのように従順に帝国主義戦争の膨大な予備軍に利用され殺戮されることはない。
大衆の革命組織は世界中に存在している。
ヨーロッパ諸国の勤労大衆は既に各々の革命の経験を持っている。
これらの内憂が書く資本主義間の利害対立と微妙に絡んでいる
第二次帝国主義戦争は世界階級戦争である。
封建的資本主義日本は、この戦争において、東洋における番犬を勤めている~云々~。」