反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

カモたちの飛来する季節がやってきた。(スズガモとキンクロハジロ)。雑草を植栽にすると。金融緩和80兆円とレイモンドカヴァー。

 離れた公園は100羽くらいのカラスのねぐらになっているのだが、カルガモの子育ての隙を伺っているようである。おっちゃんが「おかしいなぁ~、コガモの数が減っている」などといっている。カラスの中には、栄養状態がすこぶるいいのか、巨大なものを時折、みかける。
 そんなにたくさんのカラスどもは、どうして餌を調達しているのだろうかと不思議に思う。
住宅地のゴミだしを眼に余るほど荒らしている気配もない。そもそも、ゴミだしネットなど余り見かけない。公園のゴミ箱を漁った痕はあっても、その中に食い物類がないのか、極端なことになっていない。
>そうすると、人間の知恵で考えると、カラスたちは、本能的というか経験的に自分たちのねぐらの安全を確保するために、近隣との揉め事を起さない術を知っている、としか言いようない。広角的視野で四方八方から、満遍なく餌を調達しているのだろう。イロイロな野鳥のなかで、カラスに一番、興味を覚える。日常的生態が面白い。野鳥であるにもかかわらず、餌を漁ること以外に、遊びに時間をかけられる。
 カルガモの季節が終われば、これから冬にかけて、北方の大陸から何種類ものカモたちがやってくる
10月下旬、岸からかなり離れた所転々と浮かぶのは、ホシハジロカモではないだろうかと思ったが、遠目でよくわからなかった。
今朝、十数羽のホシハジロが干潟にやってきた。
以前の記事でもカモたちのことは取り上げた。日本中で普通に見かけるカモの種類を潜水カモと潜水しないカモに分けて、当地で見かけるカモの名前を特定したものであった。
イメージ 1一番多いのは、ホシハジロ(水に潜るカモ)、次に多いのはスズガモ(やや大型、コレといって特徴がない姿かたち、金属性の鳴き声から、スズ<コレ間違った見方!>)キンクロハジロ(首は真っ黒、眼が金色)というのもやってくる。全部ひっくるめて、ハジロ系?のカモである。ハジロの由来は水面に浮かんでいるときも確認できる、羽の横が白いことから来ているらしい。
*ホシハジロの画像では羽の横の白はない。
ホシの由来について諸説あるようで、以前、記事を書くときの調べでは、くちばしの先よりが白くなっている特徴から、(くちばしの先が白い、ホシハジロ訛ったと確認したが、その節は今回、陰に隠れているようである。
>ホシ=星?見当違いだな。
名づけるのは、昔の地元民。この場合は、江戸時代後期?言語感覚は違う。
 潜水カモの特徴→後尾水面に垂れる
両足の位置→後方。潜水艦の原理。
潜水しないカモ(カルガモ。水面に首を突っ込んで餌を採取)後尾水面上に上がる。両足の位置、体、中央より。鶏と同じ。


この分類は、初耳。以前の記事で調べたスズガモとは違。この二つの画像をひっくるめてキンクロハジロとしていた。スズガモはモット大きなカモで、その名前のスズの由来は金属性の鳴き声から来ている、していた。勘違いだったのか?
  *スズガモ                                                キンクロハジロ
イメージ 2イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スズガモの雄と雌
イメージ 4上の画像が正しかった。スズガモのオスとキンクロハジロと区別するのは、指摘のように、
この頭に寝ぐせがついていたら
キンクロハジロ(W。上右画像)
カモには似たようなのがいっぱいいる」
私がスズガモとしていたのはメスのスズガモORキンクロハジロ
いづれにしても、よく知らなかった
 それでもまだ、じゃあ、あのカモはいったい何?キンクロハジロのメスではなかった、という疑問は尽きない。
 キンクロハジロのような小型がもではなく、少し大型のカモをスズガモと思っていた。
とりあえず、?のままにしておく。
 


 以前の記事でススキとオギ(荻原のオギ)の違いについて、記したことがあった
この時期は雑草に拘っていた時期で、オギとチカラシバを採取してきて、鉢植えにした。その後、固形肥料を置いて、水やりも気をつけて植栽並みに扱った。
オギの生育領域は河川の水辺、川原など水気の多いところ、ということだったが、とにかく、吸水力の強さには眼を見張るものがある。鉢の腐葉土の表面が乾ききった状態になるのは非常に速く、他の植物とは様子が違う。上へ上へと伸びる成長力も凄い。生育期には一日1,5cmは伸びる。
ところが、秋の深まりと共に、ピタリと上に次々と伸びる子供の葉っぱ?【子供の葉っぱはないよなぁ~、とっさに若芽が出てこなかった】が生えなくなって、成長が止まった。
まだ葉っぱは青々としているが、この後、どうなるのか?解りきっていることとはいえ、興味はある。
 
チカラシバの古い葉っぱは次第に枯れてきたが、小さな種子を先端につけた細長い茎が生えてきた。根元のほうをよくみると、種子を先端につけた茎は何時の間にやら、古い葉っぱとは別に地中から成長してきたのだ。
チカラシバは園芸用として販売されているようなのだが、雑草のチカラシバの秋の深まりと共に見てくれの悪い様子から、園芸用はどうなっているのか、と想像する。
雑草のチカラシバは採取し鉢植えした当座はうんともすんとも言わない不気味なほどの無反応状態が続いたが、あるときから、密集していた葉っぱは、ばらけて、各々勝手に成長していくので、残バラ髪のように見てくれが悪くなる。
雑草のチカラシバは鑑賞に堪えない(?)
オギには想像を超えた不思議な生命力がある。
オギと一緒の鉢に植えた雑草(ヘクソカズラだとしていたがどうやら違っているようだ)は極小さなピンクの花を咲かせる。花が咲かなくなると、眼を凝らさなければわからないほどの大きさの、先端に種子の入った実をつける。
極小の枝豆状態か。
 
>雑草はみんな逞しく、どんな環境でも育つを考えると大間違いだ。
踏まれても踏まれても耐久性があって生育する、オオバコ(中国名、車前草)は、その心根?に共感して?、どうなるのか期待していたが、簡単に生育環境NOの信号を発してポシャッてしまった
カタバミという小さくて、可憐な花を咲かせる雑草がある。二種類あって、極小の黄色の花を咲かせて
地を這うように密生しているカタバミと、もうひとつは、ムラサキカタバミといって、モット大きめで極細い茎の先に赤紫の可憐な花を咲かせるものがある。
ソレを採取してきて、鉢植えにすると、一日でダウンする。生育環境の土をつけてもダメなようだ
記憶を辿ると、前も駐車場のコンクリートの裂け目に咲く、この可憐な雑草を採ってきた枯らしてしまって、こういうことをしてはいけないなと思ったことがあった。
今度で二度目。懲りていなかったのだ。


 ここまでの内容とガラッと趣が違って、こういう事態を追求するつもりだったが、時間不足でまたの機会とする。(1)<日銀決定会合>追加緩和 異例の僅差…賛成5、反対4 毎日新聞 10月31日(金)21時19分配信
 
2)社説:日銀の追加緩和 泥沼化のリスク高まる  毎日新聞 2014年11月01日 02時33分
 
リフレ派は最初から、主張の根幹の人為的インフレ惹起による経済好連鎖の理論的証明を欠く非理論的待望論であった。
金融政策の理屈は知らないが、経済の基礎的理論の観点に立てば、白川元日銀総裁の方がその見解に実際に当たったうえで、よっぽと手堅くてまともだと考えていた。
黒田金融政策(アベクロミクス)は失政だったのだ。その発動を民主党野田政権後期から想定していた国際金融資本は想定内の株価急上昇【日経平均株価7000円台→14000円台】で大儲けした。その後の日経平均株価の推移は、基本的にもみ合い状態。誰のためのアベノミクスかってことだ。自民党の旧来からの支持基盤の業界団体(土建不動産などなど)+国際金融資本の利権構造に大金を流し込むためのアベノミクスだった。
それで、円安の弊害である資源一次産品の輸入価格の高騰にサプライチェーンの海外化による中間財輸入→貿易収支4兆円の赤字もあって、国内需要は停滞し、このままに放置できないから、長期国債の大量買入れに突進するしかない。そうすると、現状の経済悪化状態の諸要因はモット深化する悪循環構造。こういう間違った経済政策は元からの支配層や特定の業界だけを超え太らせる。戦前もそういう金融政策のジグザグで三井三菱などの財閥が大儲けして、国民の反感を買って、後の5,15事件や2,、26事件の伏線になった。こういう金融政策は一端遣り出したら歯止めを利かすことができず、そのまま進むから厄介だ。
 
だったら、最初から、先走りしないで、モット経済法則に忠実に慎重にやれよ、ということになる。自らの政策的選択肢を狭めるものだ。
W。こんなことはリフレ派が大声を出して持論を展開していた頃から、解りきっていた。むちゃくちゃ云っているなと、わかっていた。
経産省の経済白書ですら、日本資本主義の内外構造問題を的確に描き出しているというのに、インフレ論者はこういった基礎的社会経済要因の分析すらすっ飛ばして、金融的策術に狂奔して幻想を抱いている。
そもそもインフレを無理やり作り出すのは、一体誰のため?コレは普通の経済史でいえば、経済成長にともなって資本制経済に法則的に引き起こされることであって、大量資金供給によってインフレ状態を引き起す、という経済の理屈を「発明した」のは、歴史的趨勢として後退するイギリスの経済学だった。一部、特権金融資本家だけの利権構造を確立し、他方において、多くの市民、地域の後退を意図的に即す。スコットランド独立投票騒動も、こういったシティー中心の経済構造の中で、アホらしくてやってられないというスコットランドの気分もあり、だったら思い切った条件闘争を、ということで、イギリス史において珍しいことでない。
 
既に、リフレ派批判を執拗に展開していた頃から、自分の視座は一貫している。
煎じ詰めるとグローバル資本制に棹差す、日本支配層の金融寡頭支配の強化と深化への急速に展開する階梯である。
多数派日本国民から富を搾り取って、グローバル資本の餌食にする画策である。2020年の東京オリンピックの前に事態は誰の眼にも見える形でハッキリする。
イロンナことをいうが、日本資本主義そのもの成長力は、どのような手段を用いようとも、内外を貫く構造において、微増に留まるのであって、国内的には富の移転が国内資本蓄積の主要な方途とならざる得ない。
多くの人々は金融寡頭制支配系列にインクルードされたいがために、もがいているのである。


 前回の記事でレイモンドカヴァーを短編小説集を取り上げたのも、彼の小説にアメリカ庶民の実態の一こまが見事に描き出されているとしているからだ。そのような観点から読み込まないと、あんな小説は何の意味も持たない。御蔭で肩がこった。
拝金主義、至上原理主義の社会にあって、極小単位で分解された庶民の心の奥底は、そういった社会に宙吊り状態で剥き出にされている。
     レイモンド・カーヴァー ウィキペディア(1938年~1988年)
 
 彼の小説が一般的に読まれだしたのは晩年の10年ほどである
それ以前は彼の小市民の雑事をこまごまと描き出した短編は受け入れられなかった。端的に言えば、アメリカ社会は、まだその時期は「保守化」していなかったからだ。
レーガン日本で言えば中曽根の時代を経て、彼の小説と時代潮流がマッチした
しかし、彼の経歴で言えば、冷戦体制の崩壊は迫っていたが、アメリカはまだバブル的「帝国」の道歩んでいなかった。日本のバブル経済ははじけていなかった。長期経済停滞はなかった。
ましてや、9,11テロ~アメリカバブル崩壊から世界同時不況は、想定できない状況だった
 
 彼の短編小説の風土は先に述べた如くだが、まだまだ、牧歌的なところがある、といわねばならない思想性政治性に一貫して背を向けた彼の短編世界ゆえに、時代の移り変わりの中で普遍性を作品に刷り込むことはできていないとみる。そこに提示されているのは、作家的な細かい観察が行き届いた情緒、気分であり、風俗である。中東戦争後のイスラエルに留学して文学修行を志し、当然、環境は保証されず挫折感を味わう。政治や思想のような自分の外に常に対象を設定する必要なのある世界に元々関心の薄いヒトであり、そういうヒトはごく普通のヒトである。)
 したがって今のアメリカはカヴァーの描くアメリカ社会の断片とはかなりずれている。何だかんだ言っても彼の描くアメリカ社会の断片には余裕がある。自己破産しても救いがあるかのように、大して生活レベルを落とさないで何となく生きていける。そうするうちに小説が注目されだして彼は大学に定職を得る。
今のアメリカは、カヴァーの時代とは違っているとは村上春樹の解説も示唆しているが、彼はそれをはっきりと書かない。カーヴァーアメリカを封印しているわけである。
そういうのは、文学以外に他にたくさん見受けられる。言ってしまえば、日本人固有のアメリカ像の固定化である。
 日本の庶民の世界がこれから直面するのは、カヴァー的小市民世界を飛び越えて、カヴァー後のアメリカ社会の諸相の荒波が間接、直接に押し寄せてくる事態である。
 
 そういう意味でアジア金融危機をへてIMF管理下の優等生として経済成長をして、韓米自由経済協定を結んだ韓国社会の諸相は、これからの日本社会を見通す場合に参考になる。
以前とは違って、お互いが自分自身を映し出す鏡になってきている。

     <追記>
アベ政権が結局、やったことは、韓国、中国への排外主義の醸成の眼暗ましによる日本国憲法9条の解釈改憲アベノミクスとやらのカネのばら撒きで日本経済の傷口を広げ、後戻りできない政策選択肢の巾を狭めただけ、と総括できる。多くの国民はアベノミクスによって確実に所得の上層へアメリカ資本への移転を体験中。こんなのは算数のレベルもわかること。
アメリカ、ジャパンハンドラーの基本戦略は日米韓軍事同盟強化、対中けん制なので、韓国への排外の鉾をここのところ治めさせようという動きが顕著になっているが、
>元々、今後の自民党政権を下から支え、あるいは政治暴力担当勢力として温存しておかなければならないので、切り捨てるわけには行かないジレンマ~ここだけが自民党政治の特徴で、その他はの基本政策はジャパンハンドラーの指示から、下を見下ろしたほうが、わかりやすい。
 勇ましい愛国的な言葉を並べ立てている者と、米情報筋の要員であることは、何ら矛盾するものでない。
現実に岸信介がそうだった。正力松太郎の戦前戦後の動きもこの系譜。枚挙暇がなし、闇は深い。
1950年以降の日本与野党問わず(基本は与党だが)政治の主流を営々と形成してきたこの潮流は拡大深化してきているのだが、そこから利得を得るためには、日本国民の過半の利益をグローバル資本、特にアメリカのソレと共同で、収奪しなければならない内外構造が完全に成立している。この構造は世界中の国に共通するが、日本で、特にこの過程が急速に進行する、と考える。
高度経済成長に始まった急激経済発展の付けが、ようやく国民レベル生活レベルにまわってきたのだ。バブル崩壊後の長期デフレと称される期間の肯定的な再評価もしなければならないだろう。
その後、小泉時代を経て、あらゆる方向に閉塞した社会から、世界に通用するような新しいものが生み出されるはずがない。政権基盤が脆弱で国民の期待に依拠する民主党政権は、この時期の政権としては、政策的な整合性という肝心なところに矛盾点が目立つが(それゆえこの点で党内紛争が拡大した)、世界同時不況と東日本大震災~フクシマ原発事故の泥をまともにかぶった。
 その反動をも利用して、アベ政権には戦後保守政治の念願の政治目標を一気にあげようという動力が働いた。それは同時に世界に対して相対性を深めるアメリカ支配層の日本国憲法の枠組みを越えた<政治>、<軍事><経済>に渡る日本利用の念願でもあった。
アベノミクスや、近隣諸国への排外主義は、これらの目的の燃料棒だった。東アジアという炉心にある燃料棒の火は消えないのである。