この事件は確か第二回目の公判の時に取り上げたはずだから、ずっと以前になる。反応は余りなかったが、その時事件の概略と評価はは詳しく述べたはずなので繰り返さない。
要するに特捜検察の目的は夏の衆院選が迫り、敗色濃厚な自公政権に少しでも有利な政治状況を作り出そうと春の大久保、小沢秘書逮捕起訴、に連動し今度は大阪の特捜が神戸を地元とし、小沢氏の長年の同志である石井一参議院に政治的ダメージを与えようと画策したモノである。
従って村木局長は完全な政争の犠牲者である。
障害者団体証明書発行の実行者のノンキャリア係長や詐欺団体幹部の範囲で事件を納めては大物政治家石井一関与の筋書き成立が余りにも不自然であり、事件に障害者自立支援法成立の背景(成立に向けた局長の根回し、石井一口利き)を持たせるため局長村木関与が必要となってきたのである。
すでに事件の公判では検事側の証人が全て、証言を翻し、村木関与を完全に否定している。
でっち上げ逮捕、完全否認の報復として長期の接見禁止、6か月の長期に渡って東京拘置所に未決拘留された村木被告にとって驚愕の事態だったろうと思う。
ただこの事件で否認していると報道された村木さんの様子をマスコミで確認した時から、このまま何があっても否認し続けるだろうなの直観があった。最初から毅然たる態度が見受けられたのである。
それに比べたら大阪地検特捜の言いなりになってデタラメ、ストーリーを認めてしまった男どもはダラシナイ。
さすが拘束が解かれてやっと平常心を取り戻してから己の弱さを反省し、事の重大さが分かって、「事件」のありのままを法廷で話そうと必死になっているようだが、これらの男どもの偽証言が村木さんに不当長期拘留を強い、休職を余儀なくさせ、物的精神的な筆舌尽くしがたい圧迫を当人及び家族に強いたし、現在も強いているのだ。
これらの人たちは全て検事側の証人として出廷し、裁判に至って証言を翻しているわけで、確かに真実を語り人間としての尊厳を取り戻してはいるものの、自己反省の仕方によっては日和見の自己保身ままなのである。
つまり検事に屈服したのは己が弱かったという事実の確認だけでは本当の反省にはならないのである。ここら辺の事が解っているかどうか怪しいものである。
硬く言えば、日頃の生活、モノの考え方にまで点検の眼を注がないと真実の反省にはならない。
普段、いくら仕事で成果を上げていても体制順応であれば、必ず権力の暴力を背景にした厳しい局面に対峙すれば、崩されて自分だけではなく他人にとんでもない苦痛と損害を与えてしまう。
普段、偉そうなことを言ってる、している人間の別な側面が露呈する。
言い換えると国家の暴力機構の実行は個人および周囲の人間関係を徹底して破壊できるということである。同時に闘わなければ自分を守れない局面が誰にも訪れる可能性があるということで、権力に寄り添って大きな口をたたく人間の思慮不足、想像不足は拭いされない。
前にこういうことがあった。例のイギリス人女性を殺害した市橋被告が獄中で完黙をしている時、芸能ジャーナリストを自称する人間が彼に説明責任を果たすように、どこかで書いていたが、こんなバカなことはない。
完全黙秘を貫いている時に説明責任を求めることは刑事訴訟法を否定することであり、権力の万能性を容認するものである。このジャーナリストは人間としての道徳の問題と最低限の人間としての法的権利を混同しているのである。
当ブログでいち早く反論を展開した。
こんな時の反論は必ず、断りを入れて本論になるのだが私の場合、そういったことは一切しないようにしている。
市橋個人や事件について一切論評しない、とだけ書いた。そんな常識は踏まない。そういう論法はマスコミに任せておけばいい。
ただこの記述の流れでいえば、どうしてあんな男でも完全黙秘が可能なのか、という疑問点を我々は考えてみる必要がある。
村木事件で彼女に苦闘を間接的にしいた男どもの普段は地位も名誉もある一方で市橋といえば人の道を完全に逸脱した人間である。物的証拠不足と思って黙秘戦術が妥当と彼は考えていたのか。それもあるだろうが、別の観点に立ってみる必要がある。
市橋はいい悪いは別にして逃亡の日常生活で自分を律し、警察と対峙していたことだけは間違いなかろう。これは一つの悪の「思想の実践」とも解釈できる。
ドフトエスキーの「罪と罰」、「悪霊」の描く世界には一般的な道徳や法律を超えたところの人間性のありようを追及している。
多分市橋は本人が意識するとしないとにかかわらず、このような領域に突入していたと思われる。
法律や常識、道徳の体現者となって権力は囚われの苦痛にある者に立ち表れてくるが、これに対峙するには自分の中に戦いの根拠、拠点がいる。市橋には歪んだ形ではあってもそれは存在したが、権力に屈服し、そのことによって女性を間接的に陥れた地位と名誉もある常識人には完全になかった、と断言できる。
<以上、本論と外れた記述を挿入したが本論に戻ると>
小沢秘書の石川さんのケースも虚偽記載を本人が否認し続ければ、起訴されるだろうが、裁判では被告側に有利に展開する要素がかなりあった。
つまり虚偽記載の判定は法律的に微妙なことなのである。実際、起訴事案は石川氏が収支報告書の法的記載技術を知っていれば、虚偽記載なる嫌疑は避けられたのである。
法的に嫌疑を受けない記載方法はあったのだが、中途半端な簿記の知識であったため法的に問題にしようとすればできる記載になってしまった。いいかえると、否認のままであれば、意図的な間違った記載をしたものではなく、法的知識がなかったため、記載間違いを犯してしまった、という弁論が成立し得るのである。
村木さんの場合、何よりも彼女の毅然とした態度がこの裁判の圧倒的被告有利な状況を作り出している。
これが仮に村木さんが特捜検察の筋書きどうり供述をしていたらどうなるか。
当然、石井一議員が逮捕されるかどうかなどと衆院選前、マスコミどもが大騒ぎしていただろう。
裁判も自白を覆したところからのスタートだし、周りの検察側の証人も供述を翻さなかったかもしれない。一歩間違えば彼女は恐ろしい深淵に転落するところだった。
それにしても酷いでっち上げだが、これが国家権力の姿なのである。
小沢捜査にあれこれ言って検察の行為を正当化する者の立場はいろいろだが、少なくとももうこの辺で権力の力を借りた捕りもの帳を見る様な感覚で拍手喝采する下す根性だけは自制した方がいい。
これを狙っマスコミは商売し、検察は世論の盛り上がりで事案処理で政治効果を狙う。
マスコミの視線というのは常に低いところに設定されている。薄利多売をしなければ商売にならないから下す根性を常に喚起する方向に走る習性がある。特捜検察の目的は事案を取り扱うことでの政治効果である。
長期政権下では大衆の不平不満が鬱積しがちになるが、特捜検察は時折「正義」を実行してガス抜きをするのである。
しかし政権交代を国民が自公できることを知れば、もうこんなガス抜きは必要なくなる。政権がだめならば選挙で引きずりおろせばいい。特捜の様な超権力が毎度シャシャリでてその度にマスコミどもが商売と利権確保もあって大騒ぎするよりか民主主義としては余程健全だろう。
検察組織は全国的な統一性を持って存在しているが、国民の監視が行き届くようにしなければ、これからの日本の民主主義は危うくなってしまう。これからは政治の果たす役割は大きくなるばかりだろうが特捜の様な国家権力がいつでも政治介入できるような体制では政治が委縮して国民のために機能しなくなる。
これから内外情勢の混乱は避けられなくなる。キチンとした民主主義のルールを作っておかないと国民が最後に痛い目にあう。