入浴前に、ベッド上にうず高く積み上げられた下着衣類をそっくりそのまま、入浴後装着していた、とは気づかなかった。積み上げられた衣類がすべてなくなっているのでたんすの引き出しに戻したものとばかり思っていたが、全部着込んでいたのだ。その後夕食をとって、全身血行不良を起こした。
「ヘルパーさんに変なものを食べさせられた」などといっていたが本人の異常な厚着が原因で失神状態に陥った。
>こういった場合、脳梗塞の疑いがまず第一番にあるので、できるだけ早く救急車を呼ばなければ、病院で治療しても後遺症が広がる。
>対応のマニュアルは知らなかったが、頭痛くないか、などと何度も声掛けし「いたくない」との応答があった。しかし目の前で失神状態になった超高齢者がいる。慌てた。
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近所の高齢者災難を振り返る
@離れて住んでいる息子が駆け付けたが(父親本人のTELで~妻は重度認知症~)「親父がろれつが回らなくなっている」「救急車を呼ぶにも住所がわからない」と、ドアをどんどん叩いてきた。非常に慌てていた。
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>その後、この一家は大変な目にあった。
認知症介護の夫は軽い脳梗塞で済んだが、その後、数年間で人工透析、がん転移で大手術。入院中に認知症の妻は火の不始末から焼死した。ドアをたたいた息子は脳梗塞OR脳出血で仕事ができない体になっていた。
>唯一助かったのは遠く離れたところで家庭を持って働いている次男だけだった。
>火の不始末によって損害賠償をとられるのを恐れていた。
>この大事故を後から振り返ってみると、
認知症の妻一人を置いて入院する際に、後を託した近所の世話役的な二人女性たちが残された妻がうちカギを掛けて公的援助もできない状態になっているのに<強硬>手段をとれなかったことだ。
はっきり言えば、外から侵入できるので了解の下、合いかぎを作る。
実際に自分は中の妻に用事のある人のために高所を伝って侵入できる開けっぱなしの窓からうちカギを開けたことがあった。
>この大事故後の近所の評判は
認知症の妻が訪問介護などの援助を断っていたのでどうしようもなかったということに落ち着いているようだが、
>自分の見方では重度症状の亡くなった妻に責任能力はなかった。
周りがなんとかできる方途はあった。夫の側で介護をつけることもできた。あんな状態の妻を残しているのに合いかぎを信頼できる他人に預けなかった。
@そのまた近所のスーパー高齢者も激しくドアをたたいて助けを求めてきた。
駆けつけ血圧測定すると200を超えて計測不能だったと思う。「心配するな。救急車を呼んでついていってあげる」といっているところに妻が帰ってきた。その後急激に落ち着きを取り戻した。
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その後、この夫は
室内転倒で肋骨骨折全治3か月、その後、何度も店頭を繰り返す夫に小柄な妻はそのたびに介護して腰を痛めたという。
>最後の転倒で後頭部を強打し有名な脳外科病院に入院2か月、⇒施設入所7か月で亡くなった。死亡原因は誤嚥性肺炎という意外なものだったが自由人に施設は合わなかった。
>在宅最後のころは軽い脳梗塞連発によって、脳血管性認知症だった、と自分は常々見ていた。検査していたのかどうか。92歳。
>なかなかの人物だった。私の介護も間接的にやめるように言われたことがあった。*
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歩けなくなって買い物を頼まれた、近所の人が入室したらうつぶせになった老女は布団にうつぶせになって突然死していた。
この老女の死亡事故も振り返ってみると不思議だった。
糖尿病が悪化して足が極端に腫れて買いにいけない状態なのになぜ?入院させなかった?入院費用がないわけではなかった。子供のも遠く離れていないところにいる。
私はこの人が衛星TVが映らないというのでアンテナを修正に行ったことがあって急に親しくなった。そのとき、またお礼などといって品物を持ってくるのではないかと、様子を見ていたら、会うたびに親しくするだけでその気配はなかったので、その人を信用するようになった。ありがとうの一言で良い、品物を持ってくるということは関係性の切断と自分はひねくれてみているのであっさりと対応する人を自分に近い人と信用する。年に似合わずさっぱりとしたいい人だった。終わりのころは自転車のカギを差し込むのにも苦労していたので入れてあげると、「お父さんの命日なので花を買ってくる」といっていた。カネ払いにきちんとしていた人でもあった。何事にも動じない人とは古い付き合いのある人の弁。
亡くなった前後の様子を聞けば聞く程、なぜ入院させなかったのだ、と不思議に思った。唯一考えられるのは急死である。死は本人も周りも想定外だった。しかし、買い物にも行けない事実は目の前にあったはずだ。糖尿病で歩けなくなればアブナイ。
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夜中に車いすで倒れた老女を近所の人二人で起こしに行くのがそんなに苦労することか
この件は仕事であるか否かで全く苦労とするか当たり前のこととするか、天と地ほどの違いがある。わたしは深夜明け方に連絡が入ればバイクで駆け付け、倒れた車いすの人を起こし、下の掃除をして帰宅した。現場で整然とやり切るには作業前の気構えが必要だったが、まったく躊躇はなかった。近所の人が同じことを一回ボランティアでやれば苦労話になり吹聴される。
コレどういうことなのか。よく言われる地域ボランテァの基準は少しづつの助け合い。
>しかし、対象が酷い状態になっているときにそれでよいのかということがある。
>中途半半端にやっていると犠牲を対象者が払うことになる
@この局面でこうすべきだ、と判断できる知識と行動の啓蒙を付記すべきで一般論一辺倒ではどうかと思う。
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4月6日木。部屋の整理業者が入室し見積もりだす。
自分の提案で見守り介護の人はその間に自分が外に連れ出すことにした。
自分の電解製品や必要なものも、そのひとの部屋に入れているので、確保することにした。
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生身のひとをこのように扱うものは本人も同じ扱いを受けるということだ。
この間記事にしてきた天と始原的物質(道)の話は他人ごとではない。自分の身に降りかかってくることだ。
辿り着いた東洋思想(実存主義は捨てた。介護の役に立たなかった)と戦う唯物論者としての最後を全うすることとは矛盾しない。
人間は便利にできている。
事実を直視しないで一生済ますことができる。生活の知恵というところか。
ファジー、スルースルー、外し外しが優しさなのかもしれない。
でも事実を直視すれば、白黒はっきりし、もっともっと激烈に生きられる。
架空のものに思いを託すなどというのは愚の骨頂だ。
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>仕事で介護する人と身内故介護する人、地域で無給介護する人の立場、条件における差異に気づくことが度々ある。
まず自分の体験から
久しぶりボランティア団体にかかわったとき、団体運営についてすばらしいな、と思った第一のことは、活動家が昔のように食うや食わずで身を削り活動しているのではなく、きちんと常駐のひとにはそれなりの給料を払っていたことだった。若い男女二人、実務能力や政治能力はそれほどではないが経験を積めば、ということだろうか、彼らの背後にいるものが実質的な組織運営者だった。
わたしが相応のところで動けばわずかながらでもカネが出た。
過去の経験から一方的な思い込みのボランティア活動が暴走すると最後に破綻する。
活動量と人的力のバランスを無視しがちになり自己犠牲が常態化する。これでは邁進している人はやがてつぶれていく。視野も狭いままになる。したがって内輪もめが生まれ暴走する。
権限を持っているものが常勤である場合、自己犠牲ボランティアを引き回し、使い捨て現象が発生しいつまでたっても組織は膨らまない。
活動対象が厳しい条件にあるボランティア団体ではもう自己犠牲のボランティアは通用しなくなっている。常勤を置いて安定的に活動を続けていくことが活動対象のためでもある。
>以上を踏まえて、介護の世界でも身内介護、やボランティア介護には限界があるという結論に達する。
>仕事として給与の裏付けのある介護を活動をする人と、後者の無給介護の差異はあまりにも大きすぎる。後者には職業としての倫理はない。活動に対する対価も発生しない。
>では何をもって、介護のモチベーションとするのか?
@とくに脳の老衰の人に対する介護は以上のことが特別に明らかになる。
@私は常々、職業としてやっていたら、こういう言動は抑制できたのにという悔恨に向き合うことが多かった。職業倫理がない。経験を広げる機会もなかった。雪駄琢磨もなかった。全部自分のうちで処理してきた。それで多くの迷惑を本人にかけてきた。
ある時から便利屋、代行屋に徹しようと決めた。しかし、そういうロボット機能だけでは処理できないことがあまりにも多すぎた。本人が求めているのはそういうことではなかったが、自分にはそのつもりももう力もなかった。
家族の絆は盲点もあるがやはり威力を発揮する、とつくづく思うことがあった。身を削ってでも介護している方たちがいる。夫婦のじいちゃん、ばあちゃん介護では何とか持ちこたえられる。家族の絆、任せが今に日本では多く何とか持ちこたえている。1対1介護は危ない(特に認知症の場合)。
>施設介護は経費が掛かる。在宅介護をできるだけ引き延ばしにできる福祉全体のシステムの方が結局、費用対効果が大きい。しかしそのためには社会全体のコンセンサスが確立していなければならない。在宅でヘルパーさん利用、有償ボランティアや家族介護する人にカネを出すほうが施設で拘束してカネの成る木みたいに扱い、施設の言うがままにカネを出すよりも安上がりで生活の質の向上になるのと違うかな。
>この辺は調べたことがなく情報だけで無責任に書いており迷惑に思う人たちもいる。
見守り介護の人はまだ在宅できる能力は残っているのに施設に入らなけれならない現状にある。
今はいらなければ空きがない。この点において責任を背負っていくつもりだ。それしか言えない。だから、
「生身のひとをこのように扱うものは本人も同じ扱いを受けるということだ。
この間記事にしてきた天と始原的物質(道)の話は他人ごとではない。自分の身に降りかかってくることだ。」と。
介護事業所への点数が出ていない。自分のようなボランティアはただ本人のやる気次第に任されている。きちんとカネを出ていれば、この介護状況も好転した可能性が十分にあった。従って、本人が損をし、自分は人生の時間を消費した。
施設在所期間が長いということは社会全体、世間が、人間の生々しい一生にわざと目をそらしているということであり、中途半端なことをやっているという証拠だ。それでグローバル資本制の中で地位を保っていけるかどうか。足し算引き算だけの世界ではない。
@オレンジキャラバンという厚労省肝入りの認知症啓蒙全国活動がある。
2か所で受講したが私に言わせると見当違いも甚だしいものであった。
教科書冒頭に認知症になったら、人生の最後で人間としての尊厳が保てなくなると記されている。
終わりなんだと。
ある意味でそういう事実はある。
しかし、一般の人生終末者が生の最終局面で人間としての尊厳を果たして保ったまま死んでいけるのか!
人間は死ぬときにはたった一人で死んでいく。コレが事実。
また死ねばその人の世界は終わる。残された世界とのかかわりはない。あるとすれば残された人たちの心の中だけだ。死んだものと後に残って生きていくものとの間にどういう関係があるのか、ないのか。歴史総体としての関係はある。
大昔のインドに実存した釈迦は死ぬころには原生林に立ち入って彷徨の果てに生を終えたいと思っていた。仏教思想から言ってもごく自然に出てくる考え方だ。
しかし、生前の教説流布が進んだ結果、釈迦の死の間際、ぐるりと高弟たちが取り囲んでいわゆる大往生ということになってしまった。
今の世の中で大往生できる環境にある人が何%いるか?
しかし、死の有り様が個的化、辺縁化しているということは死に臨む者にとって釈迦の望む本来の死に方に近づいている、ともいえる。
生の世界と切り離された辺縁系の死が大衆化している。
>ということは一般的な個々人にとっても死を思想化できる機会が出てきたということだ。
戦争に参加しなくても、座禅を無理して組まなくても事実を直視すれば、死に対する思想を持てる。
>自殺者がいっぱい出たり、拡大自殺のような異常事件が発生する思想的根拠はここにある。
>以上のような志向ルート以外に厳しい条件下で活動できる縁は職業的な倫理観、資本制の対価以外にない。
@一番かかわってくれているヘルパーさんは認知症の親の介護の経験があり、そこで挫折している。一番よくわかってくれるから、困難な局面にきっぱりと言い切ってくれるのですっきりすることがある。
認知症の親介護の苦しさと職業としてのヘルパー経験がうまい具合に融合しているように見える。
@所長兼人のケアマネさんは認知症の人の在宅後期の始末をやってきた人だと思う。その人が私のような頭の中でこね繰り回した考えをその都度持ち出していたら仕事にならない。
@重度の人たちを揃えたグループホームを見学したことがある。
勤務主体は男性職員である。おしっこがしたいと訴える入所者がいると強引に抱え上げてトイレに運ぶ。マニュアルから外れた力ずくの作業であった。もちろんリハビリパンツはいている。しかしそうしないと経費が掛かると思った。
最上階のグループホームの入所者の表情から人間的な要素が消えてまるで類人猿のようだった。
この老人ホームは当時、入所にはかなりの補償金をとっていたはずだ。施設訪問者から帰る後ろ上品な姿が自家用車の中に消えていった。
@それでも人間は生きていくべきだ、というのが自分の考えだ。そこで勤務する者がいて利用者がいる。コレが社会そのものの生の姿だ。
>人の世がジャングルの掟が支配するものだったら
@巷間言われていることは全部きれいごと意匠になり
@嘘には従わなくなる人が多くなる。
@世の中窮屈になりマイナス要因の多い社会は停滞閉塞する。