反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

副島隆彦VS武田邦彦「原発事故、放射能汚染、ケンカ対談」-原発事故、放射能汚染で騒ぎを大きくしても世の中いい方向に変わっていかない。

 6、11脱原発デモは全国で多くの人が参加した。私もデモにいったが、隊列には加わらなかった。
原発をなくすことは賛成するが、今すぐ全部廃炉にすることは賛成できない。
火発等々を全稼働すれば、真夏のピーク時の電力の需要調整さえすれば、いいという意見は納得できるが、自分としては確証はない。
 
 原発依存度の高い関西電力他の数社の地域の需要調整は厳しい。大口利用者の需要調整は変則的になっている。一般家庭にも需要抑制のチラシを戸別配布している。
 脱原発のために公的投資が確保できなければ、民間企業の電力会社の自力投資だけでは無理だろう。
市場からの資金調達は難しいと想う。
 
 これが平時ならば、まだ実行余地がある。
が、東日本大震災復興と福島原発事故対応を支えていくのは、イロイロ人は云うが、結局、被災地外の経済力とならざる得ない。全国民の同情だけでは問題は前に進んでいかない。
 
 例えて言えば、被災地は病んでいる方々。これを支え、介護するモノまで病んでしまえば、今後長期にわたる、支える、介護するという力が弱くなってしまう。
 
 病、病介護はできるだけ避けたい。共倒れになったり、いいことは余りない。
 
 このような、方向で考えることと、自民、民主、公明が画策している消費税引き上げによる、財源確保はイコールでない。
 
 あくまでも経済の循環を良くして、復興需要に対応すべき、と考える。
 さらに公的資金投入は政府、自治体、民間の知恵を出し合って、合意を形成しつつ、あと先を考えた計画性を持ってヤルべきだと。
 
  この大震災を冷酷な云い方だが、スクラップ、アンド、ビルトの景気浮揚の絶好のチャンスに転嫁していかねば。被災された方の鎮魂のためにも、そうしていかなければならないと。
日本国民が立ち上がる事なくして復興はない。
 みんな一緒にやる必要はない。まとまるところとアナーキーな逞しさを加味すればいい。
 集中と自由分散の力を発揮すればいい。でないとたくましさは出ない。
 
 その意味ではゼネコン事情を知りぬいた松本龍氏の辞任は残念であった。
 感情面の齟齬は今が平時でないのだから、枝葉末節の事である。
 
 今の日本国民の大半は戦後に生まれて、平和な環境に恵まれて育ったので戦乱感覚が欠如している。
が、むしろそうした時期は偶然がもとらしたものと言わざる得ない。
これからは将来は、その条件は取り払われている。
 
 増して今現在は戦乱状態の非常時が先取りされた様な、大震災と人類史上に残る原発事故が重なっている。
言葉や感情の行き違いで揉めても自分達で矛を収める習性が身についていなければならない。
それでなければ、難局続きの状況を切り開いていくことはできない。
 
 被災地の範囲は異常に広がっており、担当する政府のトップは復興の主体となる工事の実態を知っているプロでないと、過大な資金ロスが生じる。
 
 このような状況から、停止中の原発で運転可能なものは稼働すべきである。
 
今すぐ全原発廃炉は現実的でない。
 
原発事故や放射線被ばくへの絶対的な基準を適応する観点にはどうしてもなじめない。
 
 生物的恐怖心に依拠した論点には賛同できない。だから一線を敷いてデモの隊列には入らない。
歩道を歩く。
 
 大阪毎日放送ラジオ「種まきジャーナル」出演の京大の小出さんの様な意見やライフスタイルは昔から、身近に見ていて批判点があった。
 昔、そうした生活スタイルはある種のスノッブにしか実行できないモノだった。
 
 私はそうした生活さえできない人の立場を考えると批判的だった。
 
 ところが、そういう人たちの生活と意見はある意味、ラジカルにその方面で徹底している。
普通の人には簡単にまねのできないところがある。
 
 瀬島隆彦さんの対談の中での立ち位置はハッキリしている。
 
1ミリシーベルト年間被ばく量の国際放射線防護委員会の通常の基準値を絶対化すれば、事実上、原発事故の被害の範囲は大きく、ネットが掛けられる。
 
 2007年の勧告を基にすれば、1年間の限度となる放射線量の限度は平常では1ミリシーベルト
原発事故直後の様な緊急時20~100ミリシーベルト
緊急事故後の復旧時は1~20ミリシーベルト
 
  副島さんは以上の勧告に加えて、原発事故後、事故現場の正門など各地の放射線量を自ら現地に赴き測定した結果、その線量の予想以上の低さから、実際に事故後も福島県内で住まざる得ない人の立場を考えて武田さんの様な1ミリシーベルト絶対基準の人を批判している。
 原発放射線被害にあっている広範囲の方で避難できずに現地でとどまるしか仕方がない方の想いや実際の日常生活に寄り添って考えて見るとどうなんだ、と。
 
 できるだけの自衛処置をとったら、恐怖におののいて毎日暮らすよりも、前向きに暮らすしかないのではないか、と。 
 
 こういう考えが成り立つのも、政府には避難させた人々以外の方に賠償はしないだろうという推測がある。
 本当はそれではいけなくて、みんなで立ち上がって、なんとかしなくてはならないのだが、実際、20ミリシーベルトに基準値を引き上げると、対象外になってしまう。その基準値はICRPの緊急時とかの変なお墨付きがくっついている。
 
 だったら現実にどうやって生活するのか?毎日恐怖感に苛まれて震えて生活するのか?
副島さんに言わせると武田さんの見地にはそのような人たちがリアルに視野に入っていないと。
 
 私も副島さんの様な思考ルートで考える習慣のついた人間である。
武田さんの様に平常時の1ミリに固執し、危険性を大々的に訴える気持ちにはなれない。
事故直後の記事でも、被ばく線量に関しては、解らないと再三書いてきたし、逃げられない人の立場にも踏まえたはずだ。
 
 そういうルートで考えなくて、危ないから逃げろ!だけの見地では個々人や少数単位のあと先考えない、逃避行を進めるだけであり、人間の共同性に基ずく政治的見地が成り立たない。
 
 バラバラな少数単位が考え抜いた結果、自分達の判断基準でそうできるのなら、むしろ心強い限りである。
しかし実態は、それとはかけ離れているのではないか?
 
 取りあえず、自分達さえよければいいという、悪しき個人主義が根底になるように思えてならない。
これは悪い方に出ると、震災直後の必需品の買い占めとなる。
 
 もっとも、アナーキーでやるのだったら、もう権力や体制は関係ないよと、徹底してやってもらいたい。そこまで徹底すれば、これから力となる。そういう純度の高い人もいるが、たいていは違うようだ。
 
 ただこの問題は現代生活の本質にかかわる問題だから、難しい。
 
 副島さんは対談中子供を抱えた東京の放射線怖い怖いのお母さんは社会性がない、と断定しているが、同調する。
 
 東京の放射線被ばくは問題ないと考える。
もうここまで来ると、感性の問題だ。
 
 本当に1ミリ年間被ばく限度の通常の国際基準は客観的データに基づくものなのかどうか?
誰も大きな分母であるヒト試して、その数字を導き出したわけでない。
だから、1億人に何人かなど云う数字は実証的なものとはいえない。
 
そもそも、人類に放射線被害をキチンと実証する機会はなかった。何度もあれば大変なことになる。
 
 副島さんはその筋の専門家は多分、動物実験で実証しているだろうからと、武田さんの様な原子力の専門家であっても放射線の専門外の人が影響力を持って自分の意見を絶対化して、この時期に発言する事に反論している。
 
 勿論、武田さんは副島さんの様な尖鋭な意見の持ち主と対談のためにワザワザ福島県郡山まで出向くほどだから、懐の深い人である。持論は自信を持って主張するが、副島さんの政治論にもうなずくところがある様である。旭化成で濃縮ウランの抽出に成功し賞をとっている現場の人でもあり、原子力安全委員会中でも異色の存在だったようだ。
 
 非常にリベラルな人であり、科学の中立性を守り、私個人としては京大の小出さんの様な方より解りやすい人である。
 
 東大の駒場時代は学生自治会無党派だったが、委員長をしていた、というから、年代として民主党の仙谷
とは知り合いのはず。
 
 ただ、100ミリシーベルト大丈夫を福島県内で吹聴して回って評判の悪い、長崎大学の山下さんも東電からカネをもらった御用学者じゃないらしい。
 
 いま想いださないが、意外な良心的な医者の方も100ミリシーベルトでもOKを出している。
 
 ちなみに、武田さんは東電から9億円の研究費をもらっていたそうだ。
 
副島さんは武田さんを評して、現実を知らない、おっとりしたお公家さん、と云っていたが、原子力関係の名の知れた研究者は相当カネに恵まれる生活ができるらしい。
 
それが対談での彼の発言の随所に出ていて論争家の副島さんに突っ込まれていた。