第二局面ー高出生率・低死亡率(多産少死)=人口転換の歴史的過程、近代。
18世紀の後半以降まず死亡率が下がりはじめ、急激な人口増加=人口爆発
本論の分析は第一局面から第二局面まで。多産少死、女性の結婚年齢低下の主因は産業革命以前のプロト工業化=農村における家内制繊維工業の発展。
18世紀の後半以降まず死亡率が下がりはじめ、急激な人口増加=人口爆発
本論の分析は第一局面から第二局面まで。多産少死、女性の結婚年齢低下の主因は産業革命以前のプロト工業化=農村における家内制繊維工業の発展。
第三局面ー、低出生率・低死亡率(少産少死)=人口転換の歴史的過程。
19世紀後半になって産児制限が普及。、出生率が低下し、少産少死(出生率・死亡率ともに15‰ 前後)の人口様式に移行。
(出生率・死亡率ともに15‰ 前後)
>大抵のヨーロッパ諸国では、この移行が完結するまでにほぼ200年を要した。
19世紀後半になって産児制限が普及。、出生率が低下し、少産少死(出生率・死亡率ともに15‰ 前後)の人口様式に移行。
(出生率・死亡率ともに15‰ 前後)
>大抵のヨーロッパ諸国では、この移行が完結するまでにほぼ200年を要した。
I 人口動態の旧体制
<原因は、低い出生率にではなく高い死亡率>
当時のヨーロッパはまだ人口が全体としてきわめて少なく、都市や村落の規模も非常に小さかった。人口はほとんど増加しなかったし、増加したとしてもほんのわずかであった。
人口動態の旧体制を構成していたのは「生と死との対等、非常に高い幼児死亡率、飢饉、慢性栄養不良、強烈な流行病」
>当時の平均寿命(出生児の平均余命)。
1661年頃のフランスにおける平均寿命を25歳以下。16世紀末のヘッセン北部のシュヴアルムでは平均寿命はおよそ25歳と30歳のあいだ。
1661年頃のフランスにおける平均寿命を25歳以下。16世紀末のヘッセン北部のシュヴアルムでは平均寿命はおよそ25歳と30歳のあいだ。
1690年代の平均寿命は、イギリスでは32年、 ドイツのブレスラウでは27.5年であった。
18世紀末のブレスラウにおける平均寿命は33歳から34歳。
ドイツとオーストリアにおいては、19世紀の半ば過ぎになってもこうした状況は基本的にあまり変わっていなかった。
近世に生きた人々にとうて60歳をこえることができれば、まさに御の字といえた。60歳をこえて生きている者は当時の村や町できわめて稀な存在であつた。
>産業革命期のイギリスにおいて平均寿命が階級ないし階層によつてかなり異なっている事実に注目。F、エンゲルス。
W。資本制のレッセホール=市場自由放任によって、階層差顕著。産業は革命されたが、使用人は近世状態のまま放置されていた、と解釈する。
W。資本制のレッセホール=市場自由放任によって、階層差顕著。産業は革命されたが、使用人は近世状態のまま放置されていた、と解釈する。
商人と富裕な手工業者の平均寿命は22歳、
労働者、日雇い労務者、奉公人階級の平均寿命はなんとわずか15歳であつた」
<死の前の社会的不平等>は、決して産業革命とともに始まったわけではなく、<すでにそれ以前の近世にも存在>していた。
17世紀のジュネーヴについて詳しい研究。
>>この相違はある程度まで、階層によって異なる乳児死亡率に起因
実際、1000人の乳児のうち、満1歳の誕生日を迎えることができた者は、
上層では792人、
中層では697人、
下層では642人だった。
上層では792人、
中層では697人、
下層では642人だった。
>だが、それだけではなかった。死の危険は、どの年齢をとってみても上層よりも下層において大きかった。
>>工業化以前のヨーロッパでは、生まれた子供1000人のうち、150から300人が1歳未満で死亡し、もう100から200人が10歳に達するまえに亡くなった。
>>死因。
ベルリンのドロテーンシュタット教区における1715~ 1875年のすべての死亡例39251件をコンピュータ・グラフイックで描いたもの
フランドラン『フランスの家族」。
「1000人のうち200人から300人の子供が1歳になる前に死亡し、20歳まで生き残るのはしばしば半分以下であつた」
「1000人のうち200人から300人の子供が1歳になる前に死亡し、20歳まで生き残るのはしばしば半分以下であつた」
新生児100人のうち、25人は満1歳になるまえに死亡し、もう25人は20歳に達せずに亡くなり、
さらにもう25人は20歳と45歳のあいだで死んだ。60歳代にまで生きたのは10人ほど。
さらにもう25人は20歳と45歳のあいだで死んだ。60歳代にまで生きたのは10人ほど。
そして<死は、統計的にみると、人々のそれ以後の人生全体にほぼ平均してばらまかれていた。>
>>近世ヨーロッパの婚姻事情。
人口転換以前のヨーロッパは現代に比べて確かに多産な社会であった。
だがそれは、決して当時の大多数の人々が<若くして結婚したことを意味するわけではない>。
人口転換以前のヨーロッパは現代に比べて確かに多産な社会であった。
だがそれは、決して当時の大多数の人々が<若くして結婚したことを意味するわけではない>。
>>(1)相対的に高い独身者の比率と(2)相対的に高い結婚年齢であった。
独身者の比率は少なくとも5%、多くのところではは20%から25%に達した。
>これらの独身者の中核を成したのは、「ライフサイクル奉公人」?である。
およそ12~ 30歳の年齢にあるこれらの男女は、結婚に必要な資金を貯めるために、かれらの青年期を奉公人)として通常は他人の世帯で暮らした。
かれらのうちの大多数が最終的には結婚したが、この時代には常にかなりの数の独身の奉公人が、
農村では下男や下女として、都市では徒弟や職人、あるいはさまざまな種類の女中として、種々の分野で働いていた。
農村では下男や下女として、都市では徒弟や職人、あるいはさまざまな種類の女中として、種々の分野で働いていた。
>>都市には農村よりもはるかに多くの女性の独身者がおり、彼女たちのなかには結婚することなく生涯を終える者も少なからずいた。
W。日本近世の江戸、大阪は農村の長子相続者以外の男子の集合地だったから、男性過剰社会。
W。日本近世の江戸、大阪は農村の長子相続者以外の男子の集合地だったから、男性過剰社会。
ヨーロッパは都市に女性過剰現象。疑問。
<旧体制下における「受胎調節のための真の武器」は女性の高い結婚年齢>
旧ヨーロッパ社会においては、貴族の娘は別として、庶民の男女のあいだではむしろ晩婚が普通であり、
>>特に女性の高い結婚年齢は人口動態の旧体制下における「受胎調節のための真の武器」
W。現在の日本の結婚事情とよく似ている。環境不適切な変化に対する動物としての正しい生殖反応。
16世紀末から18世紀末までのイギリスの教区を対象としたサンプル調査によると、
20~ 24歳の年齢集団に占める既婚者の割合は、男で16%、女で18%にすぎなかった。
25~ 29歳の年齢集団についてみると、対応する数値はそれぞれ45%と50%であった。
W。平均寿命は30歳としても、子供時代の死亡率の高さを差し引いても、<死は、統計的にみると、人々のそれ以後の人生全体にほぼ平均してばらまかれていた」はずだから、この時代の人口停滞の必然性が解る。
17・18世紀のイギリスにおける平均初婚年齢については、男26~ 28歳強、女24~ 27歳弱という数値が示されている。
同様に18世紀のドイツにおける男の平均初婚年齢は約28歳、女のそれは25歳ないし26歳であった。
>当時、出生率は大体において35‰ と45‰ とのあいだ。
<通常の死亡率>平常時の死亡率を意味
農村では25‰ と35‰ とのあいだに、都市では30‰ と40‰のあいだにあつた。W。日本近世も同様。
農村では25‰ と35‰ とのあいだに、都市では30‰ と40‰のあいだにあつた。W。日本近世も同様。
だがこのわずかな増加分は、ほとんどすべて都市への移住や<植民によつて吸収>されてしまい、それ以上の人口増加につながることは稀であつた。
W。農業の低い生産性、余剰生産の領主の収奪、などによる農村の人口扶養力の限界。
都市は農村の余剰人口の掃き溜め。
日本の中世近世では「ずかな増加分は、ほとんどすべて都市への移住や植民によつて吸収」や国外移住は不可能だった。江戸人口100万人、大阪50万人、のもうひとつの原因。
Ⅱ 戦争、飢饉、疫病=壊滅的な死亡率とも理解できる。
当時の人々がくりかえし唱えた祈りは、「主よ、われらを戦争と飢饉と疫病から守り給え」
大惨事が起きたときには死亡率は異常な高さに達し、通常の5倍、10倍、ときには15倍にものぼつた。
そして、異常な「大量死亡が襲わないままに10年が過ぎることはめったになかった」
日本の中世近世では「ずかな増加分は、ほとんどすべて都市への移住や植民によつて吸収」や国外移住は不可能だった。江戸人口100万人、大阪50万人、のもうひとつの原因。
Ⅱ 戦争、飢饉、疫病=壊滅的な死亡率とも理解できる。
当時の人々がくりかえし唱えた祈りは、「主よ、われらを戦争と飢饉と疫病から守り給え」
大惨事が起きたときには死亡率は異常な高さに達し、通常の5倍、10倍、ときには15倍にものぼつた。
そして、異常な「大量死亡が襲わないままに10年が過ぎることはめったになかった」
<<特に戦争は諸悪の根源。>>
なぜなら、戦争はいわば不可避的に他の二つの悪を伴ったからである。
すなわち、戦乱による破壊と荒廃はしばしば飢饉の元凶になったし、不衛生な軍隊は動きまわるごとに疫病をまき散らしたからである。
そして飢饉は、間接的に疫病の流行を助長することによって、死者の数をさらに増やした。
そして飢饉は、間接的に疫病の流行を助長することによって、死者の数をさらに増やした。
というのは、飢饉のときには、貧しい人々は、栄養失調のために病気に感染しやすいと同時に抵抗力も弱くなっており、しかもそのような折りに、飢餓と空腹に堪えかねて、普段は摂取したこともないようなものを食べたり飲んだりして病気になり、命を落とすことがよくあったからである。
現実の死者の数という点からいえば、直接の戦闘による犠牲者よりも、戦争の間接的結果としての飢饉の発生と疫病の蔓延による犠牲者のほうが、一般的にはずっと多かった。