反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

格好つけるなよ。共産党。特捜検察の小沢捜査を批判できないモノがどうして建設的野党なんだよ

 今衆議院は自民が提出した議長不信任案を自民党だけが賛成。公明、みんな棄権。政府与党の民主、国民、社民の反対でやっと国民生活に直結する法案の審議入りに入ることになった。

 それまで今年の1月中旬から開催された通常国会は本会議、委員会で政治とカネの問題に費やされてきた。これまでの長期にわたる政権運営で政治とカネの問題が最も問われていいはずの自民党が先頭に立ってこの問題を大声で追及してきた。
 この党は銀行から30億円もの無担保融資を受けている。今まで政治とカネの問題が長期政権下で時折引きつけを起こしたようにしか騒がれなかったのは単に旨くやってきたからとか特捜が見逃してきたから、という単純な理由であることは多くの国民の常識である。まっ黒けに汚れた奴がイケシャシャーと疑惑なるモノを追及している。
 
 ところがここからが本論。
共産党は今頃になって衆議院議長不信任案に反対したという。つまり、棄権でもなく政府側と同じ態度取ったというわけである。
 
 これを受けて一部のいい加減なモノからは是々非々の態度を貫いただの、健全な野党の立場を鮮明にした見事な対応であるとの評価がある。

 どこが是々非々なのか、どこが健全なのか、上辺だけのきれいごとである。
プロの政治家なら政治とカネの問題を今国会で追及していけば政府側がどういう態度をとり、いつごろ各党の立場からいつ頃本格審議に入るかぐらいはおおよそ見当がつく。そのうえで政治とカネの問題を長々と引っ張って与党と政府の政治的信用をマスコミの力を背景に失墜させようとしているのであって、ここらあたりで不信任案を提出したのはその政治的意図が達成されたとみているからである。

 共産党はこれまで自民、みんな、、公明らの今国会に臨むそういう基本姿勢を十分知りながら、追従してきたのである。政治とカネ。審議では勝手に追及していただけで特捜がでっち上げマスコミが過大宣伝している内容以外の国会独自の内容ある審議はなされなかった。

  いいかえると政府と与党の信用失墜ばかりを狙って1、5カ月余りの会期を費やした。
だから今さら共産党が自民提出の議案に反対したからといって安っぽいパフォーマンスにすぎない。
この態度を持って是々非々を貫いただとか、健全野党路線を鮮明にしたなどというのは笑止である。

 共産党はこの際、清貧党、とか清廉潔白党に改名した方がよかろう。政党助成金の受け取りも拒否しているこの党は今やそれしか党の独自性はない。


 今の共産党の政治路線というのはかつての社会党の路線である。ただし組織的には口先では民主集中制などと言ってるが完全な中央集権主義で幹部だけが政治方針を出し、下部はそれにつき従うだけで異論をさしはさめないような仕組みになっている。これを組織的にやれば除名となる。
 
 ここに日本共産党の大きな矛盾がある。政治路線は事実上社会党になっている。つまりは社会民主主義左派なのに組織運営は中央集権制である。
 これは例えば中国共産党一党独裁をやっていても経済運営は資本主義なのと似ている。
 国民の多くは感覚的にこの矛盾構造を知っているから共産党がいくら口先でキレイなことを語ろうが支持を一貫してためらう。
 
 かくして共産党はいつまでも組織的に頭打ちになる。

 昔はこうした角度からの批判に対して反共的だとか反動だとかの常とう句で応戦してきたがソ連や東欧の「社会主義」崩壊によって事実上、自分たちが進歩的だとする根拠が崩れ去ってしまった。共産党流の共産主義を前面に掲げては党員さえ納得させ得ない状況が生まれている。まして大衆をやでである。
 
 また昔はこの党にはそれなりの政権への展望があった。パートナーは社会党でその下に全国の各分野の団体を結集させた統一戦線をおいてこれが政権を担うとしてきた。民主連合政権構想というモノを掲げてきた。

 ところが相手の社会党共産党を無視して、細川政権に参加したり、自民党と連立したり、挙句の果てには社民党民主党に流れて行った部分とに分解し、政党自体ががなくなってしまった。

 もちろん今社会党の流れを唯一継承する社民党共産党を相手にせず民主党と連立政権をくんでいる。

 よって共産党はもうこの日本の政界においては何処にも相手にされない存在になり果てている。展望として一切、政権を担える将来ない。ということは国政において自らの政策を実行に移す機会を永遠に期待できないということだ。
 自業自得である。他がどうこう言うよりも問題は共産党事態にあるのだが、これを絶対に切開できない。基本的に情勢が変わっているにもかかわらず、自分のいったん被った殻を抜け出せない保守的体質の政党なのである。
 これが共産党の置かれた現状である。

 昨年の衆院選共産党は全国一律に立候補者を立てることを止めて、一定の投票率を確保できないところノ立候補を断念した。これによって共産党の票が政権交代を目指す票に結びついた可能性もあった。

 ところが反面、党員はともかく支持者の中には共産党の政治的無力さにきずく人が出てきても不思議でない。ジレンマである。政権交代にそっぽを向いても、候補者を絞っても、支持者の一部から政治的無力さにきずく層がでて来る。

     
       <敵の敵は味方である>
自民党の敵は民主党であり、今彼らは必死である。特捜の小沢、鳩山捜査やマスコミ報道の異常さ、危険性を敢然と批判せず、政治とカネの問題を追及する共産党自民党公明党、利権癒着勢力にとって一種の頼りがいのある見方である。国家暴力が発動されているにもかかわらず、見てみむ振りをしている共産党自民党にとって味方である。
 
 もし共産がこの問題付いてと特捜やマスコミに強く疑問を投げかけていたら局面はからり違っていただろう。
 しかし共産にはそれができない。この党の国政レベルでの独自性は今や清廉潔白とか清貧とかぐらいしかなくなっている。政策は政権参加が将来的に見込めない以上、絵にかいた餅である。
 
 選挙でもよくあること。共産党が候補者を立てたことによって自公の反対票が割れて結果的に自公候補が当選したこと。

 この場合、たった一つ共産との行動について許される理由は共産党こそ絶対に正しいく民主党なんかは自民党と変わらぬ政党であるという断罪の立場にっ立った時だけである。
 共産党が実際やっているのはこの政治的な絶対の実行だけである。
 しかしこの絶対性の根拠が何処にもない。

 絶対性が歴史的に正しいと証明されたのであろうか。歴史的事実は全く逆の証明をしている。
 
 だから私は共産党というのは公明党以下の宗教政党だとかねてから主張しているのである。公明党はまだ悪い意味で相手と合わせる柔軟性があるが共産党は内容の干からびた原理主義に身を委ねるばかりの保守主義の殻から絶対に出ることはない。

 いま状況は、自民党衛星政党であるみんなの党、ができて国民の政治意識が分散する傾向にある。
この時、共産党がまたしても候補者を立て続けることは結果的に自民党を中心とした利権癒着勢力の大きな味方をすることに結果としてなってしまう。
 

 公明党も良く似た組織形態で組織は創価学会に依存しているから事実上、幹部の決めた政治方針に反論できない仕組みになっている。

 思うにこうした組織構図を持っている党が政権に近づいたら、政権が国民の監視を逃れて不透明に運営される危険性が増す。

 両政党とも全国の党員の無償労働が大きな党運営、政治活動の基盤となっている。

選挙などでの党員の無償労働を動員できる。

 かくして共産党は国政において政権展望は一切なく、孤立した政党として今後も自分を再生産していくしかない。キャッチフレーズで最も国民を納得させられるのは「清潔」とか金権政治批判である。あと永遠に自ら実行されることのない国民目線の政策である。

 だがこんな政党を支持するとははたして政治的に高度な判断なのだろうか。清潔といってもそういう組織形態になっているにすぎない。
 日本の自民党に反対する勢力が国民的な政策課題を実行できなかったのは抽象論にはまって現実に自民党に代わる政権を目指す党を形成できなかったからである。このことが国民福祉の後進性を招いた原因の一つである。自民党長期政権では国民の要求を満たすことに限界があった。彼らは経済発展第一主義をとってきた。しかる後にそのおこぼれを福祉に回してきた。
 共産党を支持するということはこうした悪い過去の政治習慣を温存することになる。政治は宗教活動ではな今ある力関係から現実的な選択をして自分の利益を具現化することである。
共産党支持は低次元の政治志向である。

 政治は妥協がいる。政策の客観情勢が整わなければ実行できないことはこの間の鳩山政権の動向を見ても明らかである。

 私なんか、政策をピーチパーチクやるよりもまず何より相手をどうやったら倒せるか先に考える。また政治行動を決定する時、客観情勢の分析をする。

共産党は一応そのくらいンことは考えているが自分の殻から出ることはできない存在である。

 民主党の政治家の一部がダメなのは今書いたような権力闘争や客観的情勢分析をしないでいい政策があればなんとかなると勝手に思い込んでいるところである。そんな魔法があれば自民党だって実行できている。