反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

思い出のグリーングラス(green green grass of home)は死刑囚の唄とは知らなかった。

  このところYou tubeで好きなカントリーを聴いている。飽きない。今夜もたまたまドリーパートンが年老いたポーターワゴナーを椅子に座らせてアイ、オールウェイズ、ラビン、ユーをうたっているのを見ていたら、昔彼の思い出のグリーングラスのレコードを持っていたことを想い出して、検索してみたが、どこにもなかった。
 その代わり、思い出のグリーグラスにまつわる話に行き当たった。
 
 ああ!この曲は明日、刑場に連れて行かれる死刑囚が古い樫の樹のある故郷の家族と恋人のメアリーを夢見た唄だったんだ、と。
 ポピュラーではトムジョーンズが歌っているのをテレビの生で見た記憶があるが、切々と歌い上げているのはこういう歌詞の中身だったからなんだ。
囚人の唄ってことは、疎い私でも聴いていて解っていた。
でも明日、刑場に消えていく死刑囚だとは遠まわしにしか表現されていないから解るはずがなかった。
 
 歌詞の一番、二番の懐かしい故郷は夢から覚めた三番でどんでん返しされている。
 
夢から覚めるとそこに ア、ガード(看守)と年老いたパドレ(神父)がいてデイブレイクにはアーム、イン、アームでアイル、ウォークとしか表現されていないが、看守と神父がいて、私は腕をとられて歩いていくだろう、というのだから死刑囚が明日、刑場に連れて行かれる、ということだ。
 
 今改めて歌詞を確認するとシンプルできれいに韻を踏んでいることが分かる。スゴイ。
 
カントリー分野では大御所のジョニーキャシュの独特の低音節のモノが有名。彼にはフォルサム、プリズンブルースという囚人ソングがある。
カントリーの取り上げる定番に昔から囚人ソングのパターンがあるが、さすが死刑囚のモノは珍しい。
 フォークの「トム、ドゥリー」の歌詞ならあからさまに絞首刑(リンチ)が唄われているから、疎い私でもわかる。
 
 余談になるが、ジョージ、ジョーンズというカントリーファンなら誰でも知っている超有名ベテラン歌手はベトナム戦争に従軍し、精神に異常を抱えた老人がアル中ホームレスになってウイスキーボトルを片手に寒い夜空の下、息絶えていく唄をうたっている。これも動画で見た。
 題して「ワイルド、アイリシュ、ローズ」。確かバーボンウイスキーの銘柄だったと思う。彼自身、離婚を繰り返し、アル中だった過去がある。その想いをベトナム戦争の傷の癒えない老ホームレスに託して歌っているようだ。
 マール、ハガードは服役の経験があり、それをうたっている。
カントリー界最大の天才、ハンク、ウイリアムスは29歳の若さで飲酒過多で突然死している。
  日本の演歌とカントリーは良く比較されるが、重なっている部分と違う部分がある。カントリー歌手にはシンガーソングライターが多い。歌手は自分と世間を肉声で表現できる。演歌世界のような超有名プロ作詞家はいないんじゃないかな。
 日本ではそういう人が結構いるから、以下取り上げるようなプロによる歌詞の内容のとんでもないことが日常茶飯事になる。格差社会なら、それ相応の人権と自由が保障されて、バランスがとれる。日本社会は北朝鮮中国と欧米の中間である。マスコミの様に北と中国をあざ笑うことはできない。やりたい放題できるのは事実上権力を握っているアンタラだけである。
 で、やりたい放題やっている権力の下僕の証明をしていく。
 
>>「思い出のグリーグラス」と称して、日本では森山良子がレコーデングしているらしいが。
三番の歌詞を勝手に作り変え、歌詞全体の内容をまるっきり、別物にしている。
私は冒涜行為だと思う。
 
   山上路夫日本語詩
   (三番)
    悲しい夢見て、泣いたの
    一人都会で迷ったの
    生まれ故郷に立ったら
    夢が覚めたのよ
    思い出のグリーングラスオブホーム
    笑顔で誰も迎えてくれるの
    思い出のグリーングラスオブホーム
 
  これじゃ、都会で挫折した若者が故郷に舞い戻ってくる話になっている。ノー天気もいい加減にしないと。
英語の歌詞では最後の部分では、
故郷のみんなが会いに来るのは真逆のアズ、ジェイ、レイ、ミー。
私を横たえるとき、=葬るとき。死刑にされた自分の遺体を大きな樫の木の下に葬るとき、と明日刑場に向かう死刑囚が観念している。意識がはっきりしているモノに明日、死が強制されるとき、観念は時空を超えて彷徨い、死を受け入れようとする。これが人間の人間たる所以だ
 ところがこういう実に人間の人間としてのある意味崇高な観念的時空を勝手な都合の日本語詩で無きものにしている。いや真反対のモノにしている。
 だから冒涜と思う。
アルベール、カミュの「異邦人」の最後の場面。無関心、無感動な人格を問われ死刑を宣告された主人公、ムルソーは独房に説教に来た神父を追い返して、神の存在を超えてた不条理、其の物の世界と宇宙と一体になる。本質として不条理な人間存在のありのままの体現者、ムルソーはどこにも神は存在しない世界を理解し、自分の不条理と世界の不条理をヒックルメテ世界として納得した。
 「思い出のグリーングラス」に唄われている主人公にムルソーの様な時が訪れたかどうかは解らないが、そういう崇高な観念の領域に至ったことは間違いなく、作者はその崇高な瞬間を伝えている。
 しかし、何はともあれ、崇高な時空を消し去ってしまっては話にならない。深いところでの人間への冒涜である。
  
 こういう配慮を文化芸能方面でも一貫してやれば当然、無菌、無抵抗社会が出来上がるが、その社会は本当の意味で価値判断の基準なき社会である。難局に遭遇した時、社会全体が間違った判断を下してしまう社会である。相対的利害判断だけで動いてしまう。
 が、難局では判断主体の国家の構成員の利害は大きく対立している。だから、こういうときは価値判断の基準がいる。
 
年配の方なら知っている松尾和子の「再会」。(昔の私の愛唱歌だった)
 あれって監獄にとらわれた恋人を思う唄。歌詞にそのモノずばり「監獄」という言葉が使用されているがテレビでうたうときは違った文句に置き換えられ、唄の山場が台無しになっていた。
 
 逮捕、留置所、未決拘置所、刑務所。市民社会からずっとかけ離れたところのものとしていたら、突然、わが身にそういう事態が降りかかると、抵抗力が弱くなる。
 石川議員の様子からして、逮捕されたら、マズイナとは思っていた。
自分も経験者だから、官憲に狙われたモノの精神状態はわかるから、問題は周りがキチンと守らなくてはならないと。あれを境目に批判的になった。
また、逮捕された、警察の事情聴取を受けたというだけで、無意識に何か悪いことをしているからそうなるのだとあたまから犯罪者扱いする。
 警察や検察が正義だとは限らない。正義は大げさにいえば、人間の数だけある
大阪府警の警察官新規募集のポスターの標語。「正義の実現」。警察官はそんなことに力むより、法に照らし合わせた実務に徹底しろ!
 
 ここまで無茶苦茶な歌詞の改懺も無菌、無抵抗社会の表れと言ったら、穿ちすぎか。
 
昔、岡林信康の唄った「チュリップのアップリケ」。メロディー、リズム、歌詞ともそろって、良いフォークソングなのに放送禁止。差別問題を間接的に取り上げているからだ。
ところが、今現在、管政権支持らしい。統一地方選挙ポスターで、管直人と写したものを堂々と張り出している。
増税して雇用が回ってくるとしているのだろう。巷の管支持団体(?)にはこういう目先のモノさえ取れればそれでよしとするものが多い。雇用を連呼した管は失業対策みたいなものを構想しているらしい。
昔の社会党路線の理念部分を剥ぎとって、経済要求に純化したモノにとって小沢路線は無用な混乱を巻き起こす元凶に見えているようだ。強烈な反小沢感情には物的根拠がある。現状に支配層と仲良く一体化すれば、モノは獲得できると思い込んでいる。ただ、現実の獲得物は特定の上層部にしかいきわたらない。
 で、一部の上層部にえさを与えて全体の支配の道具とする。
管や支持者は支配の道具である。
 
 近年ではマスコミはやりたい放題。
あれじゃ、ヒットラームッソリーニも必要ないって!
 
 国と国民生活の命運がかかった次元の問題には多方面からの意見が公になることを願う。
難局では多数の意見が正しとは限らない。
 
 特にTPP。
結果は現在からハッキリ見通せる。
「思い出のグリーングラス」の本来の歌詞を真逆みたいな内容に変えてしまう行為と同じことをマスコミ管政権、経団連はやっていまいか。
ことは超重大課題。議論を尽くせ!
 何が「平成の開国」か?
敗戦を終戦と言い換えるのが日本。なるほど官僚と天皇制(国体)は残ったのだから彼らにとって終戦に過ぎなかった。
  官僚制度が敗戦にも拘わらず、明治以来続いているのだったら、それに忍従してきた国民性の継続も具体的歴史の中で検証しなければならない。
私の問題意識はずっとそうだったけど。「政治とカネ」じゃなくて「政治と暴力」だ。武器なき批判は奴隷の批判である。
 
 調べたら西ドイツでは0の年と呼んでいるそうだ。