反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

朗読 永井荷風『問はずがたり」。シャボン 朗読横丁。1946年、構築した世界によって大正デモクラシーから戦争拡大、敗戦に至る歴史過程を描き切った。各節目の社会風俗がイデオロギーにも依らない作家的な眼で描かれている。

  朗読 永井荷風(1879年~1959年)『問はずがた」

https://www.youtube.com/watch?v=6H1RKlPaaF0

出典。シャボン 朗読横丁

3時間余の丁寧な朗読。長いが中編小説。

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『問はずがたり』、扶桑書房(1946)/ 『問はずがたり吾妻橋 他十六篇』、岩波文庫(2019)

物語は大正デモクラシー時代の主人公(一人称)画学生が下宿先で近所の若い娘と知り合いになった頃から始まる。

パリに留学した主人公は関東大震災 - Wikipedia後、帰国。

>急激に復興した東京の繁華街の活気ある雑踏はパリやニューヨークを超える、とまで表現している。

画家は長崎に旅行した際に近所の娘(年上の方)と偶然出会って、東京の住所に遊びに行って同居していた年下の娘(同棲後、若くして婚外子の幼女がいたと判明、やがて子供は入籍)と同棲する仲になり、以降今でいう夫婦別姓の婚姻関係を続けていく(女は死別~~想えばこの小説、唯一の「通常」の男女関係)。

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 2,26事態の翌年に発表された『濹東綺譚』、岩波書店(1937)/ 新潮文庫(改版2011)以降、敗戦に至る時代状況のなかで、沈黙を余儀なくされていた永井荷風流の教養小説 - Wikipedia一種である。⇒『問はずがたり』、扶桑書房(1946)

 当然にも教養小説に不可欠な主人公の内面の成長など見当たらず

淡々と①当時の東京の風景描写(さすが江戸趣味のヒト、聞き惚れる名文!描写は芥川龍之介と甲乙つけがたい。聴いているだけで戦前の東京を想像できる)

②「家庭」内~~同棲女、家政婦、連れ子、戦時を背景に次第に究極の三角関係に至る~~のおんな趣味(同性愛、のぞき見)、色恋沙汰<淫靡趣味>によって物語は進行していく。

今日的な小説表現方法を採用するとトンデモナイ、リアリズム描写になる所は完全にカットされ情緒に流されずカラッとして「当たり前」に事が進行したような印象を読者に与える。この辺が永井荷風の筆力だ。度々描かれている花鳥風月などの絶妙な情景描写が適度なアクセントになっている。

なお、この朗読だから永井荷風の流れるような一連の名文が耳に入ってきて情景を想像させたが、活字なら途中で投げ出していたのかもしれない。『濹東綺譚』を昔読んだとき全く受け付けなかった。

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 1937年の軍国主義化が一気に進行する世相に対して『濹東綺譚』の市井の猥雑への沈潜して以降、沈黙しながら戦争に至る過程を具に見てきた永井には、敗戦直後の1946年に書いて世間の公表したいことがあった。多分、戦時中に構想を練っていたのだろう。永井流の時代総括であり意見である。世情の描写はキチンと時代状況を踏まえて資料的価値さえある。

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火垂るの墓の情緒を反省し野坂昭は当時の阪神間の歴史資料を検証しながら「火垂るの墓」の真実と背景を「アドリブ自叙伝」に書いた。

20世紀初頭の日本資本主義の最大の生産拠点、阪神間の工場地帯と神戸港の近代化がリアルに解り、日清戦争による賠償金獲得(政府財政の1,5年分)が日本資本主義の原始的蓄積であった、という持論の検証になった(松方デフレ政策による農民分解⇒労働層出現(秩父困民党蜂起の時代に層としての都市の工業労働者は出現していなかった)=原始蓄積論はマルクスの当てはめ)。

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1946年、永井荷風のように自分の構築した世界によって(巧みな文章表現で主要登場人物の画期的な常識破りぶりが大した違和感なく好奇心をもって読まれるように描かれている)大正デモクラシーから戦争拡大、敗戦に至る歴史過程を描き切った小説家がいたのかどうか?自分の知る限りその手の小説が出現するのはしばらくたってからであった。多くの名のある作家は戦時中に体制翼賛の方向にあって再出発に時間がかかった。その他の作家も食と生活が優先した。

プロレタリア文学の作家は治安維持法の狙い撃ちにあい転向から立ち上がったが、共産党の政治路線の枠内にあり<近代文学派>の部分的批判が正当性を持つように印象付けられた(治安維持法下の非合法活動時代のハウスキーパー女性差別問題~政治活動に完全無欠はあり得ない~)。

>いずれも戦時中の時代状況に対する現代的な問題意識が希薄だった。

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  引用 ウィキ W。書かねばならないことが降り積もっていたから即刻、帰京した。

「翌日岡山へ戻って「休戦」を知った。荷風は帰心矢の如く、8月30日村田武雄(音楽評論家)が入手した切符で同夫妻と上り列車に乗り翌31日帰京。このあまりにも唐突な荷風の行動に、永井智子は常々帰京する時は3人一緒と約束していたのにと気分を害し、「私達の裏切られた気持ちは心の寂しさは一代の大家をみそこねていた気持ちの悲しさで一杯です」(大島一雄宛の手紙より)とあるように衝撃を与え、以降、智子は荷風に会わなかった。」

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この小説の永井荷風調の世界の開示(因習的家庭像の破壊、究極の個人主義)と

>③関東大震災から東京大空襲疎開までに至る各時代的節目の社会風俗がイデオロギーにも依らない冷静な作家的な眼でリアルに描かれている

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 しかしながらはっきりと云えば、戦前日本の戦争に至る社会状況をできるだけ有りのままに知りたいという欲求が無ければ、この3時間余の朗読に一気に付き合うことはできなかった。

「家庭」内~~究極の三角関係に至る同棲女、家政婦、連れ子、に至る~~のおんな趣味、色恋沙汰は読後感としてはスッキリ入ってこなかった。

>社会との緊張関係がスルーされ葛藤が無く孤絶しているので、その特異性がリアリティーを失っており、やはりこの部分は通俗であった。

>女たちに自由人、個人主義者のリアリティーが無く、遺伝的要素や環境、生来の性格に帰せられた

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@ただし日本の戦前と地続きの敗戦直後に現代的な意味での自由人、個人主義者のおんなを小説の中で描くのは無理筋。コレは歴史の事実。だから無いものねだりだ。

GHQ将兵になびく女たちが自由人だったのか、という意味で荷風の「問わず語り」のおんなたちは自由人であり個人主義者である、といえば頷くしかない

@だったら荷風の描くおんな像は抽象的なのは仕方が無いが

@敗戦直後の歴史的条件においてリアルである。

>存在が意識を規定するのであって意識が存在を規定するのではない!マルクス「ドイツイデオロギー

>ゆえに「問わず語り」の女たちは一種のハードボイルドな態様で良かった。

主人公の画家だけは永井荷風のキャラクターを思わせるのは仕方がない。

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永井荷風を論じる手立ては無いが、あれほどの個人主義を貫くのは<壕>の心が無ければできない。

志賀直哉 - Wikipediaに通じるところがある。生まれ育った境遇も似通っている。だが、志賀直哉白樺派であった。荷風は「落伍者」であろうとし、独自の世界を目指した。

評論を読めば永井荷風は<壕の者>とわかる。

     ↓ ↓   

永井荷風 正宗谷崎両氏の批評に答う

  引用

大正改元の頃にはわたくしも年三十六、七歳に達したので、一時の西洋かぶれも日に日に薄らぎ、矯激なる感動も年と共に消えて行った。その頃偶然<黒田清輝くろだきよてる先生に逢ったことがあるが「君も今のうちに早く写真をうつして置け。」たわむれに言われたのを、わたくしは今に忘れない。日本の風土気候は人をして早く老いさせる不可思議な力を持っている。

わたくしはふと江戸の戯作者また浮世絵師等が幕末国難の時代にあっても泰平の時と変りなく悠々然ゆうゆうぜんとして淫猥いんわい人情本春画をつくっていた事をはなはだ痛快に感じて、ここにもっぱら花柳小説に筆をつける事を思立った

⇒W大逆事件 - Wikipedia荷風の結節点といわれている。

   

永井荷風『花火』の中で、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案したと書いている。

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永井荷風 花火

  「花火」から同文の援護を詳しく引用する。日本の作家は社会的政治的事件を評するときも鴨長明方丈記」調になる好例。自然現象のように社会的事件を次々に描く。「花火」は「方丈記」の大災害の連続を描く調子とよく似ている。

  引用 全文に目を通してみなければわからないことがある!

明治三十七年日露の開戦を知ったのは米国タコマに居た時である。

わたしは号外を手にした時無論非常に感激した。然しそれは甚幸福なる感激であった。私は元寇の時のように外敵が故郷の野を荒し同胞を屠りに来るものとは思わなかった万々一非常に不幸な場合になったとしても近世文明の精神と世界国際の関係とは独り一国をして斯の如き悲境に立至らしめる事はあるまいと云うような気がした基督キリスト教の信仰と羅馬ローマ以降の法律の精神にはまだまだ憑拠するに足るべき力があるもののように思いなしていたのだ。いかに戦争だとて人と生れたからには此の度独逸ドイツ人が白耳義ベルギーに於てなしたような罪悪を敢てし得るものではないと思っていたのだ。

つまりわたしは号外を見て感激したけれど、然し直に父母の身の上を憂うる[#「憂うる」は底本では「憂える」]程切迫した感情を抱かなかったのである。ましてや報道は悉く勝利である。

 >W.以下、日露戦争の獲物に不満を抱く民衆集会に端を発する日比谷公園焼き討ち暴動を指している。

 戦捷の余栄はわたしの身を長く安らかに異郷の天地に遊ばせてくれたので、わたしは三十八年の真夏東京市の市民がいかにして市内の警察署と基督教の教会を焼いたか、又巡査がいかにして市民を斬ったか其等の事は全く知らずに年を過した⇒W。洋行ボケから一転、
日本の絶対主義的な天皇制国家権力の大弾圧に直面。このときヨーロッパ帰りで慶応大学教授(文学論、「三田文学」創刊編集長、と仏文)に抜擢されている。


 明治四十四年慶應義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うに云われない厭な心持のした事はなかった

>わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。

>小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。@然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。

私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。

わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた

>以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。

その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた

@わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民のあずかり知った事ではない――否とやかく申すのは却て畏多い事だと、すまして春本や春画をかいていた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思立ったのである。

*****W.ココから先、昭和「方丈記」社会事件編が始まる。ただし想えば、当時、こうも社会事件を並べて書いた名の通った文学者がいたのかどうか?荷風の社会的感性はナィーブであった。

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大正二年三月の或日(1913年)、国民新聞焼打

護憲運動 - Wikipedia

 W.時代の流れは対象デモクラシーに向かっている。軍備拡張強硬は民衆の反発を受け

政府の御用新聞と目された国民新聞や、やまと新聞(東京スポーツの前身という)東京日々新聞(毎日新聞の前身)は攻撃目標にされた。

引用 日比谷焼き討ち事件から民心は「閥族打破・憲政擁護」に変わる。

山縣有朋の意を受けた桂が陸軍の軍備拡張を推し進めようとしたものとみなし、議会中心の政治などを望んで藩閥政治に反発する勢力により、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする第一次護憲運動が起こされた。」

  W.永井荷風「花火」引用に戻る⇒想えば「花火」とはヒトを食ったタイトルである!

  引用」

その時にわかに路地の内が騒しくなった。溝板どぶいたの上を駈け抜ける人の跫音あしおとにつづいて巡査の佩剣はいけんの音も聞えた。それが為めか中央新聞社の印刷機械の響も一しきり打消されたように聞えなくなった。わたしは潜門をあけてそっと首を出して見た。牛乳配達夫のような足袋跣足はだしにメリヤスの襯衣シャツを着て手拭で鉢巻をした男が四五人堀端の方へと路地をかけ抜けて行った(W。江戸の打ち壊しのような身なり)。其後から近所の出前持が筋向の家の勝手口で国民新聞焼打の噂を伝えていた。わたしは背伸をして見た。然し烟も見えぬので内へ入ると其の儘ごろりと昼寝をしてしまった。置炬燵が誠に工合よく暖かであったからである。夕飯をすまして夜も八時過あまり寒くならぬ中家へ帰ろう荷風は野次馬の群衆の一人>数寄屋橋へ出た時巡査派出所の燃えているのを見た。電車は無い。弥次馬で銀座通は年の市よりも賑かである。辻々の交番が盛に燃えている最中である。道路の真中には石油の缶が投出されてあった。
 日比谷へ来ると巡査が黒塀を建てたよう往来を遮っている。

暴徒が今しがた警視庁へ石を投げたとか云う事である。わたしは桜田本郷町の方へ道を転じた。三十八年の騒ぎの時巡査に斬られたものが沢山あったという話を思出したからである。虎の門外でやっと車を見付けて乗った。真暗な霞ヶ関から永田町へ出ようとすると各省の大臣官舎を警護する軍隊でここも亦往来止めである。三宅坂へ戻って麹町の大通りへ廻り牛込のはずれの家へついたのは夜半過であった。

⇒W。「方丈記調」とは言えない!行動する群集の一人であった。街頭に大勢群集が出ていたら、取り締まりは困難になる。以上はいまなら騒乱罪適応段階。しかし、選挙権は限れた一部にしかなく民衆は行動するしかなかった。今は多様な方法が一応、ある。

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 大正四年になって十一月も半頃と覚えている。

⇒W。この手の事態は日本独特だ。今のフジTV事件と深層で繋がっているような気がする。利権者はエロスを目的のためなら安易に動員する一方でマスコミやネットが伝えるよりも別角度から苦々しく思っている人の声はこの事件のように表面化しない。それは下層の心根であり鬱屈し事あるごとに降り積もっていく。(トランプ現象の一翼を担っている)。小さな正義を振り回すばかりでは社会の底に沈潜した怒りを見過ごす。

   引用に戻る

「都下の新聞紙は東京各地の芸者即位式祝賀祭の当日思い思いの仮装をして二重橋へ練出し万歳を連呼する由を伝えていた。

かかる国家的並に社会的祭日に際して小学校の生徒が必ず二重橋へ行列する様になったのも思えばわたし等が既に中学校へ進んでから後の事である。

区役所が命令して路地の裏店にも国旗を掲げさせる様にしたのも亦二十年を出でまい。此の官僚的指導の成功は遂に紅粉売色の婦女をも駆って白日大道を練行かせるに至った現代社会の趨勢は唯只不可思議と云うの外はない。

この日芸者の行列はこれを見んが為めに集り来る弥次馬に押返され警護の巡査仕事師も役に立たず遂に滅茶々々になった。その夜わたしは其場に臨んだ人から色々な話を聞いた。

最初見物の群集は静に道の両側に立って芸者の行列の来るのを待っていたが、一刻々々集り来る人出に段々前の方に押出され、やがて行列の進んで来た頃には、群集は路の両側から押され押されて一度にどっと行列の芸者に肉迫した。

行列と見物人とが滅茶々々に入り乱れるや、

日頃芸者の栄華を羨む民衆の義憤は又野蛮なる劣情と混じてここに奇怪醜劣なる暴行が白日雑沓の中に遠慮なく行われた

芸者は悲鳴をあげて帝国劇場其他附近の会社に生命からがら逃げ込んだのを群集は狼のように追掛け押寄せて建物の戸を壊し窓に石を投げた

 其の日芸者の行衛ゆくえ不明になったものや凌辱の結果発狂失心したものも数に及んだとやら。

然し芸者組合は堅くこの事を秘しひそかに仲間から義捐金[#「義捐金を」は底本では「義損金を」]徴集して其等の犠牲者を慰めたとか云う話であった。
 昔のお祭には博徒の喧嘩がある。現代の祭には女が踏殺される。

*****1918年、コメ騒動

 大正七年八月半、節は立秋を過ぎて四五日たった。年中炎暑の最も烈しい時である。

再び表通りへ出てビーヤホールに休むと書生風の男が銀座の商店や新橋辺の芸者家打壊された話をしていた。
 わたしは始めて米価騰貴の騒動を知ったのである。

然し次の日新聞の記事は差止めになった。後になって話を聞くと騒動はいつも夕方涼しくなってから始まる。

其の頃は毎夜月がよかった。わたしは暴徒が夕方涼しくなって月が出てから富豪の家を脅かすと聞いた時何となく其処に或余裕があるような気がしてならなかった。騒動は五六日つづいて平定した。

******日比谷公園で組合の集会とデモ行進

W。大正デモクラシーは本番に入った。軍部は押された。以降の内外の歴史の流れに注目!

   引用

やがて十一月も末近くわたしは~~日比谷の公園外を通る時一隊の職工浅葱あさぎの仕事着をつけ組合の旗を先に立てて隊伍整然と練り行くのを見た。その日は欧洲休戦記念の祝日であったのだ。病来久しく世間を見なかったわたしは、此の日突然東京の街頭に曽て仏蘭西で見馴れたような浅葱の労働服ブルーズをつけた職工の行列を目にして、世の中はかくまで変ったのかと云うような気がした。目のさめたような気がした。
 米騒動の噂は珍らしからぬ政党の教唆によったもののような気がしてならなかったが、洋装した職工の団体の静に練り行く姿には動しがたい時代の力と生活の悲哀とが現われていたように思われた。

わたしは既に一昔も前久し振に故郷の天地を見た頃考えるともなく考えたいろいろな問題をば、ここに再び思い出すともなく思い出すようになった。

 目に見る現実の事象は此年月耽りに耽った江戸回顧の夢から遂にわたしを呼覚す時が来たのであろうか。もし然りとすればわたしは自らその不幸なるを嘆じなければならぬ。

 花火は頻に上っている。わたしは刷毛を下に置いて煙草を一服しながら外を見た。夏の日は曇りながら午のままに明るい。梅雨晴の静な午後と秋の末の薄く曇った夕方ほど物思うによい時はあるまい……。        大正八年七月稿 

    荷風「花火」引用終了、戦前政治事件史のリアルな事態を知った。部分だけ切り取って伝聞していく欠陥が解った。「花火」は全文を知るべし。荷風の肉声と肉体ががそこにあった。後の荷風像は自ら作り上げたものである。荷風は脆弱なヒトではなかった。

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 永井荷風 正宗谷崎両氏の批評に答う

  引用

新橋夜話しんきょうやわ』または『戯作者げさくしゃの死』の如きものはその頃の記念である。浮世絵ならびに江戸出版物の蒐集しゅうしゅうに耽ったのもこの時分が最も盛であった。

浮世絵の事をここに一言したい。

わたくしが浮世絵を見て始て芸術的感動に打たれたのは亜米利加アメリ諸市の美術館を見巡みまわっていた時ある。さればわたくしの江戸趣味は米国好事家の後塵こうじんを追うもので、自分の発見ではない。明治四十一年(1908年)に帰朝した当時浮世絵を鑑賞する人はなお稀であった。

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日本では宮武外骨みやたけがいこ(1867年~1955年)W注釈を以てこの道の先知者となすべきであろう。

ja.wikipedia.org

東京市中の古本屋が聯合れんごうして即売会を開催したのも、たしか、明治四十二、三年の頃からであろう。⇒W.浮世絵に衝撃を受けたのはフト立ち寄ったヨーロッパの美術館の所蔵する浮世絵展覧会だった。薄暗い美術館のライトに浮かぶ写楽大首絵は今まで見てきたどんな絵画よりもずしんと胸の堪えた。完全なデフォルメなのにリアリティがあった。その後、古本市で買った写楽浮世絵画集から切り抜いた大首絵11枚を部屋に張っている。

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*******W。筋書が混乱しているが仕方がない。知らないことを書きながら知って納得することが反俗日記の本懐。

W注釈 宮崎外骨(若き日に改名し本名にしている)。

讃岐うどん発祥の地で(香川県内陸真ん中付近)生まれている。

  ウィッキ引用 ハチャメチャぶりは立花高志と似ているが、両者の中身(元祖反骨ジャーナリスト、世情研究者と紛い物)、時代状況(日本資本主義右肩上がり世情は活気冷わ資本主義世情委縮の相違はあまりにも大きすぎる。

  引用

大正4年1915年)、第12回衆議院議員総選挙に立候補し「政界廓清(かくせい)・選挙違反告発候補者」を名乗り選挙違反を片っ端から告発。落選運動の走り的存在といえた。結果は259票と、法定得票には辛くも到達したが落選。一部の高額納税者にしか選挙権が無いという当時の選挙制度を正面から批判した

大正6年1917年)、第13回衆議院議員総選挙でも再び選挙違反告発を目的として立候補。『スコブル』に選挙違反告発の目的を達成できなくとも「自己の賣名」は達成できると開き直ったり投票日前に「落選報告演説會」の告知を出したりた。この時代の総選挙は厳密には立候補制ではなくどこの選挙区で運動することも可能だったが、東京市大阪市それぞれの選挙区でいずれも3票と惨敗した。ちなみに「落選報告演説會」は落選後予定どおり開催され、外骨の他、外骨を下回る2票で惨敗した職工の厚田正二、1295票で法定得票には到達したが及ばなかった講釈師の伊藤痴遊も弁士として出席し盛況であった。」

 『滑稽新聞』の成功⇒廃刊した月刊誌「噂の真相」はその手法を完全に真似ている。後継誌、株式会社サイゾーと共同で2014年7月からニュースWebサイト「LITERAを立ち上げた

宮武外骨 奇抜と滑稽 創刊号〜滑稽新聞59号 :一部の号欠け |戦前昭和の雑誌 | 古本・版画・骨董の出張買取 | 大阪の古書 象々

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昭和2年1927年)、博報堂の創業者で外骨の友人瀬木博尚の寄付により、東京帝国大学法学部明治新聞雑誌文庫(通称「明治文庫」)が創立された。外骨は事務主任(東京帝国大学嘱託)となり、吉野作造とともにその充実に貢献した。外骨は全国の旧家を回るなどして新聞・雑誌の収集を行った。これらの資料は文化史的に価値のあるもので、広く研究のための利用に供されている(後に明治新聞雑誌文庫は、東京大学大学院法学政治学研究科附属「近代日本法政史料センター」の一部門に改組)

終戦後もGHQによる検閲や発禁処分を度々受け、「何が言論の自由か」と言論の規制を敷いている点では戦前の日本政府とGHQは大して差が無いことを批判した。

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  永井荷風 正宗谷崎両氏の批評に答う

   引用

ここでちょっと井原西鶴について言いたい事がある。

世人は元禄の軟文学を論ずる時かならず西鶴近松とを並び称しているようであるが、わたくしの見る処では、近松西鶴に比すれば遥に偉大なる作家である。

西鶴の面目は唯その文の軽妙なるに留っている元禄時代にあって俳諧をつくる者は皆名文家である芭蕉とその門人去来きょらい東花坊とうかぼうの如き皆然りで、ひとり西鶴のみではない。試に西鶴の『五人女』と近松世話浄瑠璃せわじょうるりとを比較せよ。

西鶴市井しせいの風聞を記録するに過ぎない。

>然るに近松空想の力を仮りて人物を活躍させている

>一は記事に過ぎないが一は渾然こんぜんたる創作である。ここに附記していう。岡鬼太郎おかおにたろう君は

近松の真価は世話物ではなくして時代物であると言われたが、わたくしは岡君の言う所に心服している。」⇒W「問わず語り」もそういえば近松創作性空想の力を仮りて人物を活躍させるは怪しいが)時代性時代状況はきっちりと描かれている)を念頭に置いている、ともいえる。

   永井荷風 正宗谷崎両氏の批評に答う

巴里パリーには生きながら老作家をまつり込むアカデミイがある。江戸時代には死したる学者を葬る儒者捨場があった。大正文学の遺老を捨てる山は何処にあるか……イヤこんな事を言っていると、

>わたくしは宛然さながら両君がいうところの生活の落伍者」また「敗残の東京人」である。

さればいかなる場合にも、わたくしは、有島、芥川の二氏の如く決然自殺をするような熱情家ではあるまい。数年来わたくしは宿痾しゅくあに苦しめられて筆硯ひっけんを廃することもたびたびである。

そして疾病しっぺい老耄ろうもうとはかえって人生の苦を救う方便だと思っている。自殺の勇断なき者を救う道はこの二者より外はない。

老と病とは人生にみつかれた卑怯者を徐々に死の門に至らしめる平坦なる道であろう。天地自然の理法はすこぶるみょうである。」

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    反俗日記

>日本の世界恐慌以降の1930年代は高橋是清の金融財政膨張政策によって軍需も潤ったが民間消費生活も活況を呈していた時期があった。デパートは買い物客でごった返し上階のレストランは満員だった。繁華街の商店は繁盛していた(当時のルポや小説を読まなければピンとこない~

1930代の<常民レベル>では暗黒一色ではなかったコレは今の世相を理解するカギ。)。

同時に対外的には満州事変から中国大陸侵攻が行われていた(国際連盟脱退)⇒日本の体制が変わる(変わる中身はさておいて)のは主要因は中からではなく外部情勢による。

@以上の内外の複層した政治軍事経済のベクトルが当時の世界構造の中で第二次世界戦争に行きついた。

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ウィッキの高橋是清の財政金融膨張政策(日銀の政府国債直接引き受け大拡大、と財政膨張が合体)の項から調べていくと、軍部が悪用した、などと一元的に批判を集中させているが、浅はかも良いところだ。だったらその政策は時代状況に適切であり、運用方法が間違っていた、となる。

1930年代のドイツの経済統計資料と分析はネットに載っている

>日本の1930年代論に必要な統計資料は探してもなかなか見当たらない

当時、戦時下(15年戦争中である)を理由にきちんとしたインフレ率などの統計資料は公表していなかった、とおもう。

統計資料に接する機会がなければ各人のイメージや理屈を適応するしかない=暗黒の1930年代論の単純化論。英米にはめられた日本の陰謀論

戦後日本の高度経済成長時代に対する別な視点からの批判も見当たらない。

今の経済状況も煎じ詰めると元を糺せばそこに行く。

**********************************************以下、情勢は単純ではなく、別の視座を探す必要もある。

⇒ある特殊な内外状況に恵まれて成長した経済はグローバル資本制の下でそのファンダメンタルズに相応しい立ち位置に回帰する。

改良しながらそれを良しとするか否か、だ。⇒資料は反俗日記の過去の記事に載せている。ファンダメンタルズは昨年後半の記事で日本の国土を集中的に取り上げた記事に示した。<水>に恵まれていない日本は衝撃的だった。大国を維持するため国土、物的人的資源に乏しい。グローバル資本制下では世界に流動する巨大マネーの投資を背景にその国の潜在的なファンダメンタルが威力を発揮する。

 

世界の余剰生産とマネーの過剰消費国アメリカの解消できない内外に渡る世界矛盾を拡大し、世界は身構える。

世界的な国家間の対立と収奪の歯止めが外され階層分解は一掃深まる。

とんでもないマネーが世界の富豪に集中するシステムをさらにいっそう推し進めてしている。何かと制限の多いメイク アメリカ グレイト アゲインよりも世界投資マネーは今以上に新興国に向かう。エマニュエルトッドのいう国益第一主義を目的とした関税強化は自国の生産力とつりあった場合だけ有効に機能する。利潤率の問題である。

アメリカカナダ関税交渉の眼目についてトランプはアメリカ側の入超に対する経済問題からいつのまにやら合成麻薬移民問題にはぐらかし30日間期限延長にしている。コレは経済問題に波及しないやっている感を出す醸し出すためのパフォーマンスである。

世界の余剰生産とマネーの過剰消費国アメリカの解消できない内外に渡る世界矛盾を拡大に手を付けることはできない。メイク アメリカ グレイト アゲインは戦争政策を推し進めるしか手立てがない。

ウクライナロシア戦争は止められない。

中東の一時停戦の前途も怪しい。

日米首脳会談における日米安保強化は東アジアの激動情勢からアメリカ支配層が日本支配層の協力の下から日本国民の過半から獲物を収奪する体制への深化の道を突き進んでいる。

日米安保は日米支配層による日本国民過半への共同収奪体制になっていく。

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>「暗黒日記」は昭和18年膨張しきった日本の戦線が押し返され始めた時期から書き始められた。だから今の我々結果が解っているので好戦論者は滑稽なのであり、その前の段階の日記があれば、コレほどの滑稽感はだせなかった。清澤自身の朝鮮半島満州、中国観も「暗黒日記」ほどきっぱりとしたものではなかっただろう。

情勢が「暗黒日記」で書かれているほど明らかになってからでは手遅れだ。

そのずっと前に自らの権益を削っても何とかしなくてはならなかった。

歴史は現場から遠く離れれたら良く見えるが、歴史現場近づけば近づくほど現状と将来は解り辛くなる。

出典先       

www.youtube.com

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荷風を訪ねたキーン | Backdrop

付録 「日本の作家たち」ドナルド・キーン, 1962 

 千葉県市川市八幡。

⇒W。京成電車利用の場合、上野発OR、JR日暮里京成線、乗り換え。京成中山駅の前の駅、東中山下車、中山競馬場へ、徒歩15分ー専用バス。

 京成八幡駅下車の風景は他の駅に見られない大きな松の並木道が目につく閑静な雰囲気市川市の中心は八幡である。

永井荷風は、京成八幡駅近くの自宅で終焉を迎え、同駅付近には「荷風の散歩道」(八幡小学校前通り)と名付けられた通りなどが残っている。」荷風宅の遺品は市川市に寄贈され市庁内で公開されている。

 八幡の赤点線、三角の右端に脚本家の水木洋子Wikipedia(1910年~2003年)邸~~邦画ファンなら一度はスクリーンで見た名前~~~が有り、市川市に遺贈され史跡になっている市川市名誉市民・市民栄誉賞。次々に建て増していった凝った作りの豪邸、である。

第2、第4の土曜と続く日曜に公開されている」「市川市は江戸川を隔てて東京の隣で、昔は真間、八幡あたりはけっこうな高級住宅地になっていた。今は代替わりでマンションやアパートが多くなっているが、今も道が細くて行き止まりが多い。」「「水木邸」というより「水木宅」という感じ。50年代の暮らしがそのまま残されたような家である。」W一応図面を見て邸宅とした水木洋子の暮らした家 見取図

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市川市】名作映画の脚本家・水木洋子さんが暮らした趣ある邸宅を訪れませんか? | 号外NET 市川市

水木は八幡に1946年から居を構えた。同じ町内に居住している時期は重なるが、映画脚本家水木洋子の名を決定づけたのは成瀬巳喜男監督の1950年代半ばの一連の名作、山の音 浮雲 驟雨

であり、水木洋子永井荷風宅を知っていても永井荷風水木洋子の名を知らなかった、とおもう。

 

「日本の作家たち」ドナルド・キーン, 1962

永井荷風とは一度だけ会ったが、それも一時間足らずだった。それに、その時、私はひどい二日酔いで、何か意味の通ったことを言うことはほとんど不可能だった。私は彼がどんなに気むずかしい人か前もって知らされていた。つまり東京以外で生まれた人には話しかけないとか、門下の者にしか分からない、一種の暗号を使うとか、外国人を見ただけで姿をかくしてしまうこともあるとかいうたぐいである。で、車が東京を出て千葉に向かう途中、私は荷風先生に言うため、面白い意見を考えようとしたが、あまり頭がぼんやりしていたので、大した成果はなかった。

私は少し前に『すみだ川』の翻訳を出していた。その前年、これでかなりの間日本ともお別れだと言う旅の飛行機の中で、文庫本で『すみだ川』を読み、その美しさに心を奪われ、涙が出て来た。その時の体験から翻訳へと駆られたのだった。頭さえすっきりしていたら、荷風先生の文体が、いかに、日本で最も私を楽しませてくれたものの精髄と感じられたかを言ってみせることができるのだが、その時私は思った。

自動車が止まって、私たちは表札のない小さな家へと細い小道を歩いて行った。私の友人が前を歩いた。私たちは家に上がって荷風先生を待っていた日本人はよく、きたない所ですがと自分の家をけなして言うが、荷風先生の家はこうした表現が適切でもあろうかと私が感じた最初の家だった。

しばらくして荷風先生が現れた。着物をだらしなく着、前歯のかけたその顔は非常にみにくく見えた。

ところが一度彼が語り出すや、こうしたほかの印象はすべて消えてしまった。

⇒W.大学で教えていた。教え子多数、佐藤春夫水上瀧太郎堀口大學

久保田万太郎

森鷗外上田敏の推薦により、教授に就任。
5月 - 雑誌『三田文学』を創刊、主宰した。

小説永井荷風伝 他三篇 (岩波文庫佐藤春夫

人事と自然との配合、密接な連結は、日本文学の一つの伝統であって、西欧の作家から多くを学び取ったにも拘らず、ついに東洋人たる荷風の血脈がこの伝統を自らに固守させるのであろう。 自ら嘲って葷斎と云い、固有の文脈を尊重して、常に飽くまで日本語の芸術家であろうとする荷風は生まれながらの芸術家であり日本の作家である。」

非国民荷風は故国に文明を切望する無二の愛国者であった。ただその文明の観念を役人どもと異にし、その愛国の観念は軍人と同一でなかっただけである。」

私はあんな美しい日本語というものを聞いたことがない。彼の言ったことの内容を正確に思い出せないのが残念だが、私はあの言葉づかいと話しぶりを忘れることはないだろう。彼の、なにか古風な言葉づかいのために、その内容がすべて覚えられるように思えた。あれと比較できるほどの優雅さで英語を話すのは、私の経験ではバートランド・ラッセルだけだ。五官はぼんやりしていたが、私は強いよろこびを感じた。荷風先生に興味を抱かせるようなことが何も言えなくても、そんなことは全く問題でないと思われて来た。耳を傾けているだけで十分だった。

「日本の作家たち」ドナルド・キーン, 1962