反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

大正14年(1925年)生まれ、在学中学徒出陣で海軍航空隊入体の歴史家、色川大吉の自分史から、岩戸景気ー60年安保改定ー高度経済成長の時代を抜粋。第1回。

 色川大吉(1925年生まれ)さんは丸山真男(1914年~1996年)の一回り下の年齢で、同じく兵隊体験がある。
飛び級で旧制中学入学、仙台の二高から、無試験入学した東大文学部国史科学生時代、年齢が足りなかったので、文科系学生の学徒出陣を免れたが、結局、海軍航空隊に入隊している。特攻隊の卵の様な存在で本土決戦が実行されていたら、飛行機はないが、何らかの形で突撃の命を受けていただろう。そういった意味で特攻隊は優秀な人材を肉弾に変えており、どのような状況であっても、その種の戦争手段は国家が選択すべきでない。
次の様な坂口安吾の戦前日本軍への敗戦直後の感想は妥当である。
「日本の兵隊は耐乏の兵隊で、便利の機械は渇望されず、肉体の酷使耐乏が謳歌せられて、平気は発達せず、根底的には作戦の基礎が欠けてしまって、今日の様な無残な敗北となっている」
 
 以下、時代を追って、重要個所を編集して引用。
 
1、高度成長経済は池田内閣の所得倍増政策以前に始まっていた。神武景気は省略。岩戸景気1958年~1961年=経済成長率年率平均11%。賃金上昇ー家電製品を中心とした生産消費循環。
例。松下電器S30年売上約220億円~35年1055億円~39年2204億円。9年間で売上10倍!
 
2、1959年(S34年)正田美智子、皇太子結婚。ミッチーブーム。沿道に55万人詰めかけた馬車パレード。
「皇太子たちの馬車によるパレードは英国王室の猿まね」
沿道で旗を振る群衆はマッカーサーは帰国する時も沿道で旗を振っていた連中だなと。そしてこの大衆は連中は戦中には出征兵士を旗で送っていたのだ。群集の熱狂は全く当てにならない。群衆が熱狂する時概ね危険だ。ナチス時代のあの大衆の熱狂ぶりは悪夢の様でなかったか。しかし歴史は何度でもそれを繰り返す。コレから先も。」
 
>ここから先は60年安保関連。
 
3、1959年(S34年)岸信介自民党総裁就任し、安保改定を決意。
サンフランシスコ講和条約(日本独立)と同時に締結された
「安保条約の不平等性を改めて、日米対等の関係を作る。
>そのためには、憲法9条を廃止し、防衛力の強化を示して米国と対等な新安保条約を締結しなければならない。
>3月12日参院答弁<自衛の範囲なら防護用の小型核兵器保有も合憲>」
 
4、カストロゲバラキューバ革命政権樹立と1959年ゲバラAA親善大使として来日し、広島原爆資料館訪問
チベット軍と中国軍衝突し、ダライラマ14世インド亡命。
チッソ水俣工場に被害者住民2000人突入。水俣病。1959年。
 
5、1959年(S34年)。三井鉱山一時二次の大量首切りによって、総評、炭鉱労組の三井闘争開始。
>写真家、土門拳筑豊のこどもたち」あとがきより。
「日本各地の炭田地帯には炭鉱離職者の大集団がいる。貧困のどん底に喘ぎながら、なぜ彼らが暴動を起こさないか不思議なくらいだった。
何ら施作の施されないまま、1959年の年の瀬を迎えた。20万人を超える飢餓人口がボタ山の裾野に放棄されたままだった。」
>炭鉱作家上野英信
筑豊の労働者たちが三池闘争に立ちあがったとき、
その底辺は!気の遠くなるほどの奈落だった。彼らは炭鉱離職者ではなく、無理矢理首を切られて<棄民にされた><失業者>出会って自ら職を離れた人たちではなかった。
>エネルギー革命、高度経済成長という美名のもとに生贄にされた<ニッポン棄民>だった。」
 
6、1959年(S34年)。
安保阻止第8次統一行動による国会請願デモ約2万、国会構内突入(1960年の前哨戦であり、あの時の樺美智子さんの死んだ国会突入と違う。)
警視庁の社会党の責任をも追及との恫喝に、突入を主導した全学連主流派を総評、社会党の統一行動から排除。
1958年総選挙結果。社会党の過去最高の166議席共産党議席
 
7、1960年安保改定阻止闘争の政治過程の時系列。
1960年(S35年)1月16日。全学連主流派700人条約書いてのため渡米する岸首相訪米阻止闘争。
 
1960年1月20日。米国にて、岸信介首相新安保条約調印。
アイゼンハワー大統領来日と皇太子訪米の日程を条約批准日に合わせて決定。
 
1960年1月25日。三井三池鉱業所。数千名の指名解雇の上、職場ロックアウト。三池労組見期限スト突入。
三池闘争が総労働と総資本との激突の舞台に。
色川大吉の自分史のつぶやき。
「彼ら(旧制高校や東大の同期や後輩)のエリートの道を歩んだモノたち)は安保反対運動や三池闘争などは頭から蔑視していいるだろうか。<時代に逆行するモノ>と?
>時の流れに竿指す彼らが<進歩>的なのか、それとも待ったをかけるモノが<反動>なのか。
近代化という価値基準からすればそうなるだろう、だが私たちは君たちの価値基準を疑っている。
 
1960年。4月26日。4月革命。李承晩大統領不正選挙糾弾に端を発した民主化運動によって退陣。
死者、重傷者千数100人。一般学生、ソウル市民50万人官邸包囲。
>韓国学生運動に日本の学生運動が連動の構えだが、社会党共産党指導部は穏健秩序だった請願デモ継続を訴え、激しい直接行動を抑え込む運動スタイル。
「相手は東条内閣の閣僚まで務めたA級戦犯。釈放されても反省などしない確信犯。その男の前に何100万の誓願名簿を積み上げたところで(事実、最終的に1千万以上に上った)彼が動じるだろうか。」
「私に焦りは学生たちの焦燥感と重なり合って、高まっていった。
国民会議の指揮車がデモ隊をマイクで誘導して、国会議事堂前の議員受付テーブルに請願書を大人しく積み上げるだけの、所謂お焼香デモの繰り返しに、私も不満を通り越して怒りさえ感じるようになっていた。」
 
>>途中だが、時間の制約のため以降は次回に。
運動が高揚し、頂点を迎える政治過程と岸信介の60年安保改定。その後政治の季節から経済の季節の到来と云われる高度経済成長についても、ここまでと同じ様に淡々と色川自分史を追っていく。
 
 色川さんの著書の<はじめに>の次の様な言葉には耳が痛い。
 
「近隣諸国の人たちからよく云われる事だが、日本人、特に戦後生まれの国民には近現代史の知識が乏しいように想う。コレは近現代史を疎んじてきた文科省に基本的な責任があるのだが、歴史家、歴史教育者も責任はまぬがれない。
>国際的了解事項になっている基本的な歴史事実の知識がなければ、バランスと採れた歴史認識を持てるはずがない。
>この事は今どきの政治家にも云える。歴史認識を巡る対立以前の問題である。彼らの無学、不勉強には驚かされる。
>無学では論争する資格もない。
歴史認識が未だに外交問題になって、解決できないでいるなど恥ずべき事なのだ。」
 
この記事を書く前に戦後ドイツ史を読みこんで、色川さんの自分史の当該個所と対比し、国際的な広がりを持たせようと企画したが、一端、全部載せてから、韓国近現代史と共に対比して再考することにした。
この方向によって、ワイマール憲法状況を記事にしてきた成果を踏まえることができる。
 
 戦後の西ドイツ憲法と政治状況は孫崎さんが講演で云う国が敗戦によって、バラバラにされたから、国体(天皇と官僚機構)の残った日本と違って主体的に立て直す事が出来た、と云うのは皮相過ぎる。
 
 戦後のドイツ憲法の形成過程、その中身はワイマール共和国憲法状況の政治理念と精神が生かされている。
彼らには帰ることのできるナチス以前があったが、戦後日本の民主主義制の主体形成には、帰るべき自分たちの民主主義がなかった。
 
 コレは、過去に限定されず、今と将来の日本政治の避けて通れない問題点である。
この様な重大な確認点を蔑にして、自主外交だ、拾属派だなどと、仕分け作業の如きモノをやったら、蘇ってきた新岸信介政治路線への追従にならないだろうか。
 
 彼のアメリカ絶対を起点とし、日本を将棋の駒に例える日本イメージも、アメリカの歴史的後退と云う現実から発する世界戦略と云う観点を隠ぺいしている。
それではNOと云える日本どまりであり、あくまでも受け身、結局はNoとも云えないTPPだ。
 
 先日ぶらりと立ち寄った書店では孫崎さんの「戦後日本史の正体」「自主外交を貫いた政治家たち(書名は忘れた)}のすぐ横に、中曽根康弘「自主外交~云々」の新刊本が並んでいた。結局皮相な批判書はそういう現実の権力政治に収れんされてしまう。
 
 柄谷行人が云っていた。
過去から現在まで、本当に国家主権を保持できたのは大国だけであり、多くの国はそれに対する関係に腐心してきた。
 
 完全、自主独立と云えば、戦前の列強に名を連ね、ワシントン条約の軍艦保有を米英と争っていた日本がまさにそうだったのではないか。民需トータルの経済は最低だったが。
その時期の日本人は確かに精神的に高揚していたが、こんな国柄の当然もたらす敗戦だった。
 
 小沢一朗さんの云う山縣、原敬在りせば、などと云うのは寝言、うわごとの類である。
本当の危機の時代に政治家の状況を左右できる範囲は限られている、コレが歴史の紛れもない真実である。
だからこそ、日常的に政治の真実を見極める目を持たなければ、という事なのでは。