反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

田端義夫「19の春」考、から「五木の子守唄」「竹田の子守唄」へ。民主政の原理を辿る。

       <19の春の思い出とともに>
  歌謡界の大御所、田端義夫さんを偲ぶ
2013.05.09(木) 川井 龍介さんの記事を全文引用。我々の世代の田端義夫さんへの暖かい眼差しを代弁してくれている、ように思う。最良の田端義夫案内でもある。
 昔、車座の酒盛りで唄が始まったとき、一人の仲間がポツリポツリと唄いだした、それが<19の春>だった。わたしが唄ったのは「再会」だった。最期の方の歌詞は放送禁止のはずである。
十九の春 田端義夫
 「4月26日の新聞各紙は、歌謡界の大御所、田端義夫さんの死を大きく報じた。バタヤンという愛称があったこと、ギターを小脇に抱えて、「オース!」とステージで聴衆に向かって呼びかけていたパフォーマンス。
そして、「かえり船」「大利根月夜」「島育ち」など、戦争を挟んでの長きにわたって、大衆の心をつかむ歌を世に送り出してきたことを振り返っていた。
 私は彼の歌をよく聴いていた世代でもないし、演歌ファンでもない。しかし、かなり高齢な田端さんのことは頭のどこかにいつもあっただけに、訃報に接し深く感じ入るところがあった。それは、彼の代表的なヒット曲の1つ「十九の春」との関わりがあったからだ。
「十九の春」ジャケット
 「♪私があなたにほれたのは ちょうど十九の春でした」
 と、始まるこの曲のヒットで、田端さんは1975(昭和50)年、レコード大賞特別賞を受賞する。長い歌手人生なら浮き沈みがあって当然だが、これで彼は2度目の再起を果たしたとも言われた。
 その意味で特別な歌であり、また他のヒット曲と趣を異にする点でも特別だった。
 というのは、この歌が作詞・作曲家と組んだ作品ではなく、作者不詳の歌だったことである。それを“発掘して”世に広めたのが田端さんだった。
 「十九の春」だけではない。歌とギターが好きでだれに習ったわけでもなく歌い続けることで、自分なりの“田端流発声法”を早くに確立した彼には、気に入ったメロディーを見つけてはアレンジし、自分のものにしていく独創性があった
 
 このことに詳しく立ち入る前に、田端さんの歌手人生を振り返ってみる。田端さんは三重県松阪市に10人の兄弟、姉妹のなかで9番目の五男として生まれた。
 「父に早く死なれ、わたしの家はずっと貧乏でした。五人の姉さんたちはみんな芸者に行き、おっ母さんは借金取りに追われ続けていた。わたしも小学校にまじめに通うこともなく早くから奉公に出た」と、自伝『バタヤンの人生航路』(日本放送出版協会、1991年)にある。また、幼い頃患った目の疾患を治療できず、16歳の頃には右目の視力をほぼ失ってしまう。
 
 丁稚奉公などをして生計を立てる一方で歌の世界にのめり込み、1938(昭和13)年にアマチュアコンテストで優勝、プロテストに合格し翌年「島の船唄」でデビュー、これが大ヒットとなる。
 以来、歌だけでなく映画でも活躍。戦時中は軍の要請で中国大陸へ出かけ慰問公演を行う。
 
 終戦まもない1946(昭和21)年には、故郷を思う人の心をとらえた「かえり船」が大ヒット、「ズンドコ節」がこれにつづいた。歌に映画にと活躍するが、やがてキャバレー回りを数多くこなすほど表舞台から遠ざかった。
 
 再び脚光を浴びたのは、1962(昭和37)年に発表した奄美大島を舞台にしたエキゾチックな歌謡曲「島育ち」が大ヒットしてのことだった。
 
 その後しばらく大ヒットはなく13年後の1975(昭和50)年に「十九の春」で“奇跡の復活”を果たす。
このとき56歳。さらに歌い続け、最後の公演は2008年だった。」
 
(注1)バタヤン「島育ち」。
「島育ち」(昭和37年)
歌手:田端義夫
作詞:有川邦彦
作曲:三界
コレはちょっとなぁ~。もっと生の録音を聴きたいが探す時間がない。
島育ち」 仲宗根美樹
公開日: 2012/04/10
「田端義男、朝丘雪路などと競作であった」らしい。
>仲宗根美樹はいい感じ。唄うまい。
 
>W。1962年発売~1964年東京オリンピック開催。
高度成長経済は50年代後半から発進。(一般に60年代からとの誤解がある。近現代史家の証言。1950年代こそ古い日本と新しい日本の葛藤、並存の面白い時代。邦画の名作はこの時代に集中しており、時代背景を余計な理屈ナシに活写している。)
経済成長に伴って、農山漁村の解体、地方から都市への急激な人口移動が起こった。
日本の農村人口は戦前の工業化がなってから、戦争を挟んで高度成長経済の開始の時期まで、ほぼ一定であった。
     <参考資料>
イ)歴史的に見た日本の人口と家族 第三特別調査室 縄田康光。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2006pdf/20061006090.pdf
コレは日本の古代から現在までの人口と家族単位の変転を跡付けている。
斬新な視点。総人口の維持が成立するのは、皆婚ー夫婦ー子供二人が条件であり、そのような条件が成立したのは日本歴史において特殊な時代であった、としているところ。
当然、その特殊条件として高度経済成長や内外政治環境が想定される。
それが急激に取っ払われたら、どうなるか、という実証が目の前にある
この傾向は将来的に強化されるのか緩和されるのか?いうまでもない。
 
コレは現在の学会の通説。呼称~アホ、バカ、全国分泌図の理屈である。
アホは平安貴族が用いだした中国由来の雅ある呼称、新しい。
基本的にエマニュエル、トッドの世界の家族形態の比較論の焼き直しであるが、トッドのように自由、民主政、統治形態に家族形態を絡めていない点が物足りない。
 
>>ハ)近代日本における農村過剰人口の流失と都市労働力の形成。 張担。
この論文に農村人口、戦前戦後、一定論の視点が展開されている。
 
>都会に出てきたばかりの地方出身者がこういった唄を求めた。
>W。バタヤン最期の時代のステージを偶々、見ている。
どんな場にあっても洒落を忘れない覚めた芸人根性が目に焼きついている。
歌謡史に残る偉大な歌手であった、と今更ながらに想う。
 
>この唄のルーツは自分の知っている限り、次のものが妥当と思われる。
 
   <たる一さんのブログより>修正、割愛させてもらった。
「前回とりあげた「与論小唄」をベースに、与那国の本竹裕介さんが補詞編曲したという。
田端義男さん(バタやん)はその歌詞を歌っている。

 さて歌のルーツに関する議論であるが、簡単にまとめるとこうなる。
1)当時(1905年頃)流行の添田唖蝉坊がつくった「ラッパ節」が全国に流布
2)台風被害を受けた与論の人々が長崎の炭鉱に出稼ぎに行きそこで「ラッパ節」を元に「与論ラッパ節」、「与論小唄」などを作る。W。鹿児島以南の島嶼部から炭鉱に職を求めたヒトの波がある。
3)沖縄本島で本竹裕介さんが補詞編曲し「十九の春」を作る。W。歌詞の後半、同じコザ市(現沖縄市。返還前のコザ暴動後、変名した。)に住みながら~。
 
W。コザ暴動(コザぼうどう、Koza Riot)とは、1970年12月20日未明、アメリカ施政権下の沖縄コザ市(現在の沖縄県沖縄市)で発生したアメリカ軍車両および施設に対する焼き討ち事件である。直接の契機は米軍人が沖縄人[3]をはねた交通事故であるが、その背景には米施政下での圧制、人権侵害に対する沖縄人の不満があった。コザ騒動(コザそうどう)、コザ事件(コザじけん)、コザ騒乱(コザそうらん)とも呼ばれる。
>第二次コザ事件。(暴動)
1971年8月17日にアメリカ占領下の沖縄コザ市(現沖縄市)で発生した暴動事件。前年のコザ暴動に続くコザ市で発生した第二の暴動であるが、前回とは異なり白人黒人間の人種差別問題も絡んだ複雑な事件であった。
 <事件の概要>W。ベトナム戦争公民権運動ーブラックパワー運動ーが背景にある。「激怒した地元住民」とはどういう人たちを指すのか?戦争と沖縄米兵歓楽街などの実相に、この解説は踏み込む必要がある。
 
 「1971年8月17日午前0時半、黒人グループ約50人がセンター通りで「反人種差別」を掲げてデモ行進し、白人御用達のバークラブを襲撃した。これを見ていた地元住民が激怒し、約100人が黒人グループと睨み合った。琉球警察コザ警察署(現沖縄警察署)から署員が急派すると、黒人グループは一目散に逃げ出した。群集は追いかけたが見失ってしまった。
ちょうどその時、黒人が運転する車がタクシーと接触事故を起こし、米軍憲兵が駆けつけていたことから、抗議の矛先が憲兵に向けられた。憲兵はコザ署に逃げ込んだため、群衆はコザ署に押しかけ、「黒人の暴動を許すな」と叫びながら投石したりして、署の窓ガラスを割った。機動隊が駆けつけたことで、約2時間あまりで沈静化した。」

4)1975年、本土にも歌謡曲として知られる。
 
 「十九の春」は1世紀近い時間を、多くの人々の口を介して作られ、広がっていった。
その背景には、日本の炭鉱政策に吸収された離島(奄美、与論、沖永良部島など)の人々の苦しみがあった。
元歌である「ラッパ節」が広がった背景にも、日中、太平洋戦争へといたる日本の政策の下で炭鉱や紡績などで働く人々、農民や兵士などの憤りがあったという。

>W。上記に炭鉱云々とあるが、この当時の日本は炭鉱資源を求めて、西表島にも炭鉱を開いていた。
その場合の炭鉱労働は離島を中心とする南九州の最貧層を過重債務や詐欺的人集めで、騙して過酷な奴隷労働もどきであった。
その様子の貴重な報告が三井財閥直系の民俗学のスポンサー兼研究者渋沢某氏(華やか政治経歴もある文字通りの支配層の一員)によってなされている。
探す時間がないので別のものを挙げる。
 
 2013-04-16 10:33:11 チベせん日記
<日本最南端の近代化産業遺産を訪ねて>
 
 W。ネット上のこの近辺の記事は全部貴重な資料である。
渋沢氏は当時の現地を訪ねて、働いているヒトの奴隷的無感覚を強いられた表情、動作を活写している。
抵抗の契機を閉ざされて、諦めた果てに、呆けた状態で服従する奴隷的人間のリアルな姿が今でも生々しく伝わってくる。
 
 人間は屈従状態に無感動無感覚で慣れていくのだ。動物化するのだろう。
プラトンが奴隷を言葉をしゃべる道具としたのは、このような状態の人間を使う感覚である。
古代ギリシア奴隷制について具体的にどうなのかと疑問に想ってイロイロ当たっていて探し当てた記事である。
 いつか記事にしなくてはと想ってお気に入りに入れていたが、なにぶんそれは現在では特殊状態なので、ブログ記事に差し挟む機会がないまま抹消した。
 
 わたしが岩上安見氏らの秘密保護法に対する<対米隷従>という規定に間違っていると異議を唱えるのは、過去と現在の生の現実を自分なりに踏まえてモノのである。
隷従とは奴隷状態ということであるが、それは庶民の対米観とかけ離れている政治宣伝にもならない政治センスだ。
少なくとも日本共産党はズット対米従属論を唱えてきたが、隷従などとしたことはなかった。
 
 そもそもアベ等は積極的に米国の世界戦略に呼応しようとしているのである。
彼等は進んで奴隷志願をしているのだろうか。彼等に隷属と批判するのは蛙の面に何とやらである。
 
 ところが、米国の世界戦略において一国利害の優先は明らかであり、アベ等もそれを承知で、米世界戦略への同行に踏み込んでいる。
 
 オバマらは米国支配層と国家の代表者でアベ等は日本支配層と国家の代表者と想って間違いない。
この関係において、米国国家はちっとも傷つかない。
 
 では日本国家は傷つくのか?
米国と同じくちっとも傷つかないというのがわたしの立場であり、大変な屈従を帯びるというのが、従属論者やその過激な表現である隷従論者である。
彼らは日本国家が対米関係で傷つくから屈辱なのである。
 
 アベ等の代表する支配層の意のままに操れる日本国家が屈辱的な対米関係において傷つくといって、悔しがっているのである。心配をしているのである。
日本支配層とはほとんど関係がないのに勝手に日本丸の船長さん気取りで、屈辱に想っている。
 
 こんなばかげた取り越し苦労の光景は近代以降、国民国家幻想が続いて間中、形は違ってもズット続いてきた。
 
 誰か一番被害を被ったのか?
米国民と日本国民である。
 
 また日本は片面では立派な覇権国家である。
この面をキチンと捉えて対処する必要がある。
帝国は<歴史的に後退し滅びなくてはならない>のである。
この肝心なところが抜け落ちている対米従属、<隷属>規定は経済大国日本の現実を、ごまかしている。
 
 この日本は皆、諸共、国の行方をどうとかしようなどという段階はとっくに過ぎてしまっており、みんなの舵取りは効かない状態なのだ。
この国家政治では国の行く末がコントロールできない時代状況は各国の経済膨張の盛衰、不均衡によってもたらされている。
属国だからじゃない。
 
 そういう歴史段階的な意味において、国民の対応は遅きに失しっぱなしである。
 
戦後の先進国、皆遅きに失している。
全部程度の差こそあれ支配層は勝手に戦争政治を発動してきた。 
 
 戦争政治に移行したらジエンドではマッタクなくて、乱暴に言えばチャンス到来である。
ドンドン政争政治にのめりこんで、ゆく手の視野を狭めたらいいのだ。
 
 が、しかし秘密保護法へのマスコミの対応が遅きに失しようが何しようが、今後の戦いは少数者の突出ではなく、幅広く環を広げ、個々が団体が粘り強く、生涯的に戦っていくしかないのである
それしか他に方法はあるまい。
おそらく現実の情勢も、単線的一面的ではなく複雑に推移しよう。
戦争は国民多数から収奪する手段である。
   
     竹田の子守唄
 ウィキ「、そもそもは住井すゑの『橋のない川』が舞台化される際、音楽担当であった尾上和彦被差別部落の一つである京都の竹田地区で採集した民謡を編曲して使ったもので、それが竹田地区の部落解放同盟の合唱団のレパートリーとなり、フォーク歌手達にも広まったと考えられている。尾上和彦が採集したのがたまたま竹田地区であったので、「竹田の子守唄」とされた。それ以前は題名が付いていなかった。
他のフォーク歌手が歌うのを聴き、赤い鳥も歌うようになった。最初は、この曲の由来や意味も理解していなかったが、ヒット後に背景を調べ自分達のものにしていった。1971年2月5日にシングル・カットして3年間でミリオンセラーとするが、被差別部落絡みの楽曲であったために日本の放送局はこの楽曲を放送したがらなくなり[1]、いわゆる「放送禁止歌」(封印作品)として長い間封印されることになった。」
山本潤子竹田の子守唄.flv
赤い鳥バージョンはヒットする前に生で聞いた記憶がある。
動画ではメンバーだった山本潤子さんのほうがいいみたいだ。
 
 
守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし
盆がきたとて なにうれしかろ
帷子(かたびら)はなし 帯はなし
この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら
はよもいきたや この在所(ざいしょ)越えて
むこうに見えるは 親のうち
 
<元唄>
こんな泣くぅ子よ 守りしぇと言うたか
泣かぬ子でさい(さえ) 守りゃいやにゃ
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
来いや来いやと 小間物売りに
来たら見もする 買いもする
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
寺の坊んさん 根性が悪い
守り子いなして 門しめる
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
久世の大根飯 吉祥(きっちょ)の菜飯
またも竹田のもん葉飯
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
盆がきたぁかて 正月がきぃたて
なんぎな親もちゃ うれしない
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
 
W.いったいどういうヒトが、作詞したのか気になる。生活実感が歌詞にこめられている。
 
     五木の子守唄
(1)
おどま盆ぎり 盆ぎり
盆から先ゃ おらんど
盆が早(は)よ来(く)りゃ 早よもどる
(2)
おどま かんじん かんじん
あん人達ゃ よか衆(し)
よかしゃ よか帯 よか着物(きもん)
(3)
おどんが うっ死(ち)んだちゅて
誰(だい)が泣(に)ゃてくりゅきゃ
裏の松山ゃ 蝉が鳴く
(4)
蝉じゃ ごんせぬ
妹(いもと)でござる
妹泣くなよ 気にかかる
5)
おどんが うっ死(ち)んだば
道端(みちばちゃ)埋(い)けろ
通るひと毎(ご)ち 花あぎゅう
(6)
花はなんの花
つんつん椿
水は天から 貰い水

W。中世的債務奴隷状態の百姓が戦前、熊本県川辺地域に存在した。
鎌倉初期の源氏に敗れた平氏たちが落ち延びて行った先がこの地域で、鎌倉幕府は腹心の武士団を彼等を監視抑圧するために当地に送り込んだ。その武士の子孫が33人衆と呼ばれる地主層を形成し、明治近代化移行、戦前まで閉鎖的な地域での社会的身分差別を根幹する収奪構造が温存された。
日本の被差別社会構造の一つの発生源である。
 
 熊本のことは調べたことはないが、津藩では奴隷的社会構造が温存された。
島津の拡大した領地は関が原の戦いの敗北によって、徳川政権によって切り取られ、南部に閉じ込められた結果、日本的封建軍事貴族の数が非支配層に比べて多過ぎることになった。
 
 そのような社会的条件下では、五木の子守唄に歌われているような債務奴隷状態の固定化によってしか、数が多すぎる支配層は食い扶持を確保するしか方途がなくなる。
 
 同時にそれは、奄美大島地方や沖縄住民への過酷な収奪に必然化した。
 
 五木の子守唄に歌われている川辺地方にダム計画が持ち上がり、反対運動が開始されたが、民主党政権の初期にダム計画中止が決定されたはずである。ただ、現時点のことは調べていない。
 
 煎じ詰めると、こうした事態が長期の歴史空間を経て継続すると云う事実は列島日本の農村の内外の流動性が少なく、家ー家族の継承が固定化され続けたからである。
 
>中世史の興味から、大阪泉南の日野根を訪ねたとき、中世の各種荘官の対を示す名をそっくり苗字にした家がそこここに見受けられた。
それらのうち、明らかに、中世時代から同じ場所に居住してきたと見られる家が想像以上に多くビックリした。
 
 当地は関西国際空港が海岸方面に急右折する場所に位置し、JR幹線も通過しており、後背地に低山の連なる開けた平野部で都市近郊農村地帯である。
 
 どうしてこうなってきたのか?
結論的に云えば、本の家を単位とする農村は歴史の変転にも拘らず流動性が少なかった、ということである。

 
 日本支配層は基本的に農民を戦争に動員せず、自分たちの武力で戦いあった。
言い換えると、農民の一定の部分を土地から引き剥がして兵士として動員するような大規模な会戦はなかったし、必要なかったということである。
列島は庶民にとって基本的に平和だった。 
 
 コレがユーラシア大陸の最東端で、四方を天然の難攻不落の大要塞、大海に囲まれている、という地理条件でなければどうなるか?
それに加味して、軍馬の機動力が存分に発揮できる平坦地であれば、どうなるか?
 
 田畑を耕して生活を維持しているものと、そこから一定の収奪をして自分たちを支配層として再生産しているものに降りかかる、対外勢力、異民族の脅威が常に暗雲となって、覆っている状態が想定できよう。
 主食である穀物収穫の終了後、落穂拾いをやっているところに突如、生産性の低い北方遊牧異民族が全収穫を目当てに急襲してくる。
勿論、身の危険もある。
支配被支配に関係なく、この事態にどう立ち向かっていくか?具体的にどう対処するか?
この状況を政治軍事のセキュリティーの普遍的課題として提出したのが17世紀イギリスのホッブスである。
 
 自分たちの武装が劣っていると見たら、まず何より身の安全を守るために田畑を放棄して、逃げ延びる選択がある。
敵に獲物を与えないために焦土作戦もありえる。
一方、領主に強固な城砦があれば、住民はそこに逃げ込んで、命をとして戦うという手もある。
この場合は支配被支配に関わらず、運命共同体の方策を選択したようなものである。城が陥落すれば、全部、大変な目にあう。
 もうこのような歴史的環境では、日本農村のような流動性の少ない固定的傾向はあり得ないと解る。
農村の人的構成の固定化、非流動状態は日本>朝鮮半島>中国である。
 
ホッブス的状況が進展すれば、支配層としても多数派住民の戦闘力を当てにしなければならず、必然として、住民の発言権は高まる。
>コレが西洋型民主主義の基本原理と考える。(全部コレに還元するつもりはない。戦争と民主政の関連を象徴的に例えている)
 
古代ギリシアの民主政の原点は自前武装の余裕のない肉体提供しかできない多数の下層市民が軍艦のこぎ手になり、結果的に政治的発言権を獲得したことによる。
スパルタの密集歩兵方陣系に対してアテネの優位性は海軍力による敵地の背後の急襲である。
 
 中世時代の貴族の武装の特化はあるが、絶対主義の時代には広い領域国家同士の拡大した戦争が頻繁に勃発して、国家は人民を戦争に動員せざる得なくなり、武器を手にした住民の政治的発言権は高まった。
飢餓、疫病、疾病、増税、収奪、産業発展と集団化、都市の拡大、戦争の時代状況は騒乱の中から国民国家の形成と同時に市民の武装決起を促した。
戦争、内乱内戦、国民国家の形成(国家の独立)と市民革命(市民の支配層に対する抵抗、生存の権利獲得)は一体不可分なものであった。
 
 なお、国家形成のまだ進展していない時代(階層差が顕著でない共同体優位社会)であれば、関連する住民は全員、城塞で囲んだ内側で寝起きし、耕作する場合だけ、外に出る。
日本で言えば、佐賀県吉野ヶ里遺跡状態である。
国史を極端に遡ると、漢民族の発祥は黄河中流域の吉野ヶ里遺跡状態の住民であったといわれている。
古代中国史の主戦場はすべて黄河中流域の支配権を巡る国家盛衰存亡だった。
 
 自分が例えているのは、国家形成以降=階層分解と異民族脅威の常態化の国家と支配される住民の関係である。
日本歴史において古代的祭政一致共同体政治の残滓が残るのは、冒頭に挙げた地政と風土によるところが大きい。階層分解しているのだが、支配層は人民を戦争に巻き込む必要はなく、経済収奪と治安の対象とだけした
 
 日本歴史通した特性は収穫が終わって落ち葉拾いをしていた農民は、突然、平原を馬に乗った異民族の収穫物を根こそぎ持って行きなおかつ、身の安全も保障されない機動部隊に急襲される環境になかったこと。
支配層は住民の武装力を当てにする程の大規模な戦争をする必然がなく、住民をもっぱら経済収奪をするための治安対策の対象とするだけでよかったこと。
コレは住民側から支配層を見上げると、何とか上納さえしていれば身の安全は犯されない存在でしかないから、一緒に武器を持って領地を防衛する相手ではなく、ましてや頑強に武力抵抗する対象になる必然性など、何処からも出てこなかった。 
 
 住民が丸腰のままの民主政は支配、被支配の前提条件下では、論理的に矛盾しており、国家と市民の関係では例外的な状態である。
一定の?歴史的条件がなければ成立し得ない。
日本の戦後から1985年プラザ合意ー日本バブル発生崩壊ーから日米安保ガイドラインによる法的拡大の追認までは、日本内外が特殊歴史条件におかれた時代だった。
勿論その前提には冷戦構造(特に東アジアの場合は戦後体制の残存問題がある)がある。
 
 特殊な歴史条件が希薄になれば、国家と市民のホッブス的関係と支配、被支配と戦争と平和、住民武装と民主政の根源的課題がむき出しになって、かつての平和的市民にも、否応ナシに降りかかってくる。
コレが我々の直面している内外の現実を抽象化した本質でがないか。
>が、しかし、支配層は住民を経済収奪と治安対象にだけしてきた。
そして日本歴史における国家の歴史は住民を守るセキュリティー国家でさええなく、この面で住民は放置されていた。
近代国家成立移行は搾取と治安対象に鉄砲玉としての戦争動因が追加された。
 
           アメリカ合衆国憲法
          権利章典(修正第1条-第10条)
 
修正第1条:信教・言論・出版・集会の自由、請願権
 「合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律、言論または報道の自由を制限する法律、ならびに、市民が平穏に集会しまた苦情の処理を求めて政府に対し請願する権利を侵害する法律を制定してはならない」。
 
修正第2条:人民の武装
 「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、  これを侵してはならない」。
 
修正第3条:軍隊の舎営に対する制限
W。戦前日本では民間家屋に兵士を宿泊させており、その意味を規定していない。

修正第4条:不合理な捜索、逮捕、押収の禁止
 「不合理な捜索および押収に対し、身体、家屋、書類および所有物の安全を保障されるという人民の権利は、これを侵してはならない。令状は、宣誓または確約によって裏付けられた相当な理由に基づいてのみ発行され、かつ捜索すべき場所、および逮捕すべき人、または押収すべき物件を特定して示したものでなければならない。」
>本条は直接には捜索・押収(Search and Seizure)についての規定であるが、ここにいう押収には、「人の押収」すなわち逮捕(Arrest)が含まれるとするのが米国における判例・通説である。
 
修正第5条:大陪審の保障、二重の処罰の禁止、適正手続、財産権の保障

修正第6条陪審、迅速な公開の裁判その他刑事上の人権保障

修正第7条:民事事件における陪審審理の保障

修正第8条:残虐で異常な刑罰の禁止等

修正第9条:人民の権利に関する一般条項

修正第10条:州または人民に留保された権限

ライデン、オランダ。歴史。W。詳しい解説があるのだが、探す時間がない。この機を区切りに、スペイン~イギリスへの世界覇権の移動の合間にオランダの一時的な台頭が実現した。
大規模干拓と住民参加、オランダの民主政の関連を捉える考え方もある。
 
 <16世紀と17世紀>
「1572年、ライデンはスペイン支配に対する反乱でオランダ人反乱派につき、八十年戦争で重要な役割を担った。スペイン軍に1574年5月から10月まで包囲され、ライデンは堤防を人為的に決壊させた結果解放された。水浸しになったライデンの住民へ物資を船で運搬するのを容易にしたのである。前の年に示した英雄的な防衛行動を讃え、オラニエ公ウィレム1世は1575年にライデン大学設立を許可した。ライデン包囲戦最後の日であった10月3日は、今日も毎年ライデンで祝われている。言い伝えでは、ライデン市民が大学か、支払いを避けられない税を免除してもらうかの選択を提案したという。」
 
 イギリスの歴史から清教徒革命、名誉革命とイギリス議会、国王の関係を押さえておく。
イギリスには憲法は必要なかった。
 
 フランス革命からナポレオン戦争国民国家形成からパリコミューンへ。
 
 アメリカ革命戦争(独立戦争)~アメリカ市民戦争(南北戦争)の歴史も日本では民主政に関係付けられないように、都合よく歪められているようだ。