反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

グローバル資本の生み出す欲望。わかちゃいるけど、止められない、止まらない。

 故、植木等さんのヒット曲、「スーダラ節」の一節にワカッチャイルけどやめられない、というのがある。
植木さんの父親は戦前、赤い坊さんとして故郷の寺を追われ、治安維持法に引っかかって入獄した経験もあり、戦後も自分の思想を捨てなかった方だが、スーダラ節の大ヒットで無責任男として売り出した植木さんは根がマジメだから、自分に与えられたキャラに悩んでいたところ、「スーダラ節」には煩悩にとらわれた人類の本質が唄われている哲学的な意味深い歌だ、と諭した。
 
 ザッ~ト国際関係や世界情勢を見渡していくと、どうしてもグローバル資本制の世界制覇によって人類がその際限ない欲望に引きずられている、ここにに本質がある様に想う。
 
 オウム真理教事件が起こった時、私の視点は、世間とは別のところに行った。彼らをあのような反人間的な破壊行為に走らせた思想的根拠は何か?断罪は裁判所や世間の役割だろうが、私の困った性格はそういう所に向かわない。
 さっそく、オウムが出版している刊行物を本屋で買いこんで点検してみた。
 
 思想的に面白いところもあった。
 
ソ連東欧、中国の「社会主義」の崩壊を経済過程=人間の欲望を理念、理性でコントロールする人類史的な試みが失敗してしまった、というとらえ方。
 
 この思考を私なりに発展させると当然、古来からから人と人の経済関係に根ざした商品関係の発展の究極に生み出されたグローバル資本制の、個々の人間の欲望を果てしなく喚起し、其れを原動力とする世界運動は人類の英知ではコントロールできないのでは?となる。
 
 実は以前このブログで日本共産党の最新の綱領批判しようと思って、記事を書き進んでいくうちに行き詰った事がある。結局記事は抹消した。
 
 長い綱領文章の最後の部分、ソ連東欧「社会主義」崩壊を総括している部分。
 
 彼らの意見は客観的には後進国革命の経済的限界性、帝国主義国の包囲、主体的にはスターリンによるマルクスレーニンの原則の逸脱によって内に向かっては官僚統制主義、外に向かっては、覇権主義大国主義に陥ったというものであった。
 
 以前の彼らのこの問題に関する意見といまの意見を比較して批判するのはどうでもよくて、問題は「社会主義」経済の中身である。
 昔から、「社会主義」経済に関する本を読んでも実際のところ理解できなかった。
 
 そこで、大きな図書館の関連の書棚に並べられている本を手に取ってみると、どうしようもない通俗的な非理論書ばかりだった。借りてきたが馬鹿馬鹿しくて途中で投げ出した。崩壊前後のあれやこれやも混乱やゴルバチョフエリツィンプーチンがどうしたなんかどうでもいい。
 
 知りたいのはどうして経済体制が自己崩壊の至ったかだ。そもそも、ソ連経済の実態分析も今やどうでもよくなっているのか、綿密にやっている書物が大きな図書館にも発見できない。
 
 自分の意見がキチンと固まってないところで共産党批判をしても底は浅い。
もちろんグローバル資本制を批判する場合でも、別なモデルが少しは提起されなければ、抵抗運動に終わる。
もちろん、それだけでも大きな意味があるが。
 
 自分の今現在の意見では例え共産党がいうような許容範囲の広い社会主義体制であっても、私的資本から「生産の社会化」を目指した場合、誰が一体、コントロールするのか、明示されていない。行政なのか、当該企業の連合なのか? 
 
 無理がある様に想う。金融、交換過程の連鎖の連鎖、消費者の欲望に命令、通達、介入、説得など人為的要素では十分、対応できないと思う。また、そういう関係は民主主義とは相いれないような気がする。むしろ、人間関係をカネの関係に替える事はある種の合理的関係を広範に築くことである。
 私は世間がいう小沢さんの「政治とカネ」問題もこういう角度からも見ている。
 
 世界が一斉にできないのだから、やっているところとやってないところの差異が出てくる。
 社会の一部の人間集団に権限、権力が集中することは避けられない。
そもそも、そのような原則を主張する政治集団そのものが今現在、官僚的統制的組織なのだから、発展した未来はその方向を拡大した社会になる。
 
 
 かつては高度発展した資本主義国では社会民主主義政策がソ連東欧の「社会主義」に替わる妥当で現実的な政策だったが、これらはどうもグローバル資本制の世界化に対応力を失っているようだ。
 
 問題点を羅列してみると。
 
1)一番大きな状況変化は、先進国の戦後史的国内経済発展が完全に行き詰っていることであり、それに対比して新興諸国の発展スピードが格段に速くなって世界経済に占める地位が高くなっている事。
明らかに世界経済の地域的な不均等発展の現実がある。
 
2)国境を大きく越えて展開するグローバル資本は先進国から資本流失の傾向にある。この基本動態を一国の国民国家の枠ではコントロールできない。
 
3)社会民主主義政策の前提は一国的な税収の十分な確保であるが、税収調達がうまくいっていない。
 グローバル資本は税金を何とか安くしようと画策する。イデオロギー宣伝もある。マスコミは各国ともグローバル資本の宣伝機関の様相を強めている。
 
4)日本の場合は単純である。
 
 社会民主主義政策の制度的実行度合いは低かった。政策的な実行は税金を調達した政府の予算による公共事業的分配、一部労働貴族層のけん引する賃上げ分配だった。
 当然、日本経済発展が頭打ちになれば、上記の日本的社会民主主義の根拠は喪失する。
 
一億総中流化は制度的な裏打ちのない一時的全くの幻想であった。
 
政権交代を押し上げた国民は自分たちの真の要求を整理整頓していないようだ。
 
 その基本は超遅れた周回過程ではあるが、社会民主主義的制度要求を政権に託すべきだった。これの実現のためには、捨てるモノは捨てる覚悟が必要だった。あれもこれも求めるべきでない。政策ではない、制度の改革である。
 
 マスコミ報道に誤魔化されている側面が余りにも多すぎる。
 
    <<<神の領域に踏み込めない人類にグローバル資本制への抵抗力はない>>
従って、人類に替わって、本当の神(大自然)が抵抗していくであろう。
 
 人類はいつまでたっても、「わかちゃいるけど、やめられない」!!
地球が「猿の惑星」にならないとは限らない。